●卒論について
ゼミ合宿から帰り、一休みという感じで昨日・今日と過ごしています。まぁ、少しの間、卒論の中間報告のために、悩み考えタイピングしていたから、その反動と言うべきものでしょうか。
さてさて、卒論の中間報告も、まぁ、そこそこ、上手くいき、少なくとも、先生に酷評されることはありませんでした。ただ、この内容というのは、まだまだ、僕の目指している内容の前座でしかなくて、本番はまだまだです。
そういうわけもあり、先生に酷評されることはありませんでした。まだまだ、前座でしたからね。というのも、僕のしたいのは、結局は、政治-経済-社会のトライアングルを統一的に理解するというところにあります。
今回の報告では、政府の役割しか、ほとんどフォローできませんでした。まだまだ、勉強不足です。この点については、明らかですけどね。
僕の感覚的な感じからすると、「高度経済成長期」の研究をサーベイすると、政府―経済が中心の東大系の経済史があったり、また社会史のみの社会史研究があったりするという感じですね。つまりは、社会-政府-経済のトライアングル全てを統一的に把握するという研究が抜け落ちているのではないかという感じがします。
どうして、社会まで、射程を広げる必要があるのか?それは、高度経済成長期が、就業人口の構造を大きく変化させるものであり、そこには、具体的な人々の「人生」に大きく規定されている面があるのではないか。もしも、そのあたりを捨象して歴史を見るのは、もちろん、そこでは所謂、経済発展のメカニズムは見ることはできても、それを支える大きな構造を見失うことになるのではないか。
例えば、経済発展を支えた要因の一つには、財政投融資があり、それを支える高い貯蓄率が裏にはあったわけであるが、それはどうして可能であったのか。これについては、社会面からの分析が不可欠であり、それをしないと、高度経済成長期というものの、「本質」を見失うことになるのではないか。
そして、そのことは、今日の経済問題に関しても、社会との関連を切り離して見てしまうという「間違い」を犯してしまうのではないか。
所謂「一橋大学学派」においては、経済-社会-政治を統一的に把握するというのが、テーマだとのことなので、まぁ、僕の研究は一橋大学らしい研究の一貫と言えるものかもしれません。
社会との関連で、卑近な例で言うと、「ALWAYS3丁目の夕日」において掘北真希さん演じる「六ちゃん」は「集団就職」で東京に来るという話がありました。日本の高度経済成長期においては、このように「金の卵」として、田舎から都会に若者が「移動」してきたのです。僕にとっては、彼ら彼女らをミクロな視点から具体的に描くことが重要だと思います。そして、その中で、マクロな変化に如何にして巻き込まれていったのか。
話を変えましょう。
●『史学雑誌』について
今日は、『史学雑誌』第116号第5号をブラブラ眺めていました。特集として「2006年の歴史学界」という特集が組まれていました。
一番考えさせられたのは、「どうして歴史を学ぶの?」「どうして歴史なの?」という感じの素朴でシンプルで痛くて辛くて苦しい問いでした。そして、この点が各自、自覚的に悩み苦しみながら解答しないと、その歴史は、懐古趣味や趣味でしかないということを痛感しました。
この質問にどれだけ真摯に答えられるのかが、その「歴史家」の力量を示すのではないのかという程度思いました。
まぁ、内容では、日本史の現代史において、少しは参考になりましたが、高度経済成長期の部分は少なくて、物足りないというのが、率直な感想です。
世界中の歴史を全ての時代フォローしている(アフリカとかはあったかどうかは忘れたけどね)けども、その分け方が、国単位だったので、何となく、古いという感想を持ちました。それをするなら、グローバルヒストリーをどのように考えるのかという部分も欲しかった。各国史を超えた歴史を書く必要性があるか中で、そのあたりは、どのように考えているのか。
ヨーロッパの現代のフランス(上原良子先生記述)で面白い部分があったので、そこを以下では引用します。(p.372)「20世紀後半における国民国家の変容については近年『ヨーロッパ化』(EC/EUが各国の政策を拘束し、各国政府は調整手段を喪失)をめぐる議論が盛んである。しかし、権上康男の60年代から70年代を対象とする実証研究の総括といえる『欧州通貨統合を考える』(これは論文です)によれば、①同期間のフランスは経済政策の収斂の前に通貨統合の実現を目指したというより、そのマネタリスト的主張はドル支配に楔を打ち込むための政治的戦略であった、②70年代後半においては新自由主義的経済政策の中で国家の自立性はむしろ損なわれることはなかった、と結論づけている。権上の一連の研究はヨーロッパ統合史研究においても通説を大きく塗り替えるであろう。」
国民国家の変容ということが、なかなか進んでいないということを示すことの一つの反例になるのかもしれませんね。というよりも、社会-経済-政治全てにおける「連続」と「断裂」を丁寧にフォローしながら構造的に把握し、その中で、丁寧に「変容」を描く必要があるのかもしれませんね。
無理やりに、「変容」を強調するのは、今日への過大な期待か、今日の現状分析を見誤っているか、とかに起因するようになるかもしれませんね。
まぁ、難しいですね。
以上・・・
追伸:
『のだめカンタービレ』を読む。登場人物に自分を重ねて、いろいろ考えさせられるものがあった。例えば、留学中の黒木君とか、RUIとかですね。あと、最初の千秋とかですね。そろそろ、僕も、『のだめ』から卒業の時期のようですね。『のだめ』について議論できる方、募集中。・・・・・(笑)。。。

0 件のコメント:
コメントを投稿