2007/09/29

休み、あと2日

●生活習慣について

今日は、少し変則的な生活をしたので、溜息ばかりが出てしまい、周りの皆さんには、大変に不愉快な思いをさせることになってしまった。反省したい。

急にリズムを崩すと、どうも次の日に、ドット疲れがやってくる。まぁ、しかし、次回からは、顔には出さないように努力したい。


●映画を2本見る

オフに、映画を見た。しかし、両方とも、オフに見るべき映画ではなくて、難しくて、内容があって、考えさせられるものであった。

①映画「光の雨」
 この映画は、いわゆる「連合赤軍」が如何にして、「浅間山荘事件」に至るまで、軌跡をたどって来たのかが描かれている。この映画では、主に、その事件の前史が描かれていた。

 率直に言って、この内容の映画は、夏休みにも見ていたので、その映画との比較という観点から見ていた。夏に見ていたのは、若松監督「実録・連合赤軍」である。

 違いを言うと、今日見た映画の場合は、役者が演じた感想までも含めた形での映画であったのに対して、若松監督の映画は、その事件だけを描くものであったということがある。ただ、いわゆるリアリティーという点においては、若松監督の映画のほうが迫力があった。

 もしも、日本の60年代70年代の社会変動とか、及び、冷戦における社会変動とかに興味がある方は、見てみても良い映画なのではないかと思う。もちろん、題材が題材なので、賛否両論があろうが、議論させる価値があるという点でも、一見してみる価値があろう。

②映画「名もなきアフリカの地で」

 この映画も、見ていて、考えさせられるものであった。ナチスドイツの結果、亡命をすることになったユダヤ系ドイツ人について描かれている。

 少し思ったのは、ヨーロッパとアフリカの結びつきである。というのは、僕にとって、アフリカは遠い存在であるので、何かしらヨーロッパとの接点の中で描かれていたので、興味深かった。

 ジェンダーの問題についても考えさせられた。これは、ここ数日、シンシア・エンロー著『戦争の翌朝』を読んでいて、国際政治とジェンダーを考えていたことも多少影響しているのかもしれない。アフリカに亡命することで、これまでの収入を維持できない「父親」は、「母親」に対して、権力を行使できなくなった。また、このことは、女性の独立、つまり「主婦」から「自立した女性」への道を開くことになった。結果、夫婦関係は冷え上がり、「父親」は軍に志願して、亡命して失った「男」らしさを回復しようとしたのである。とかとか、この映画はジェンダーの視点で、論じることができるものであった。

●重要

明日で、「どんど晴れ」が最終回である。残念。

比嘉さんの笑顔は、周りを明るくするような感じがする。スゴイ笑顔だと思う。

2007/09/23

お知らせ 4

明日から、木曜日まで、日本を離れます。

2007/09/18

「勉強」は嫌いだ!

●「どんど晴れ」を見る。

最近、毎朝、この番組を見ています。話も終盤なので、面白くなってきています。比嘉さんが、より美しくなっていることも、印象的である。淡い色の着物がスゴク似合っていますね。

さてさて、今は、加賀美屋は、外資による買収の危機にある。夏美は、如何にして、この危機を乗り越えることができるか!

印象的なのは、外資=悪という感じで、描いている点であろう。このような描き方をすることはできるのは、日本ではNHKくらいなのではないか。民放だと、様々な利害関係から、外資を悪く描くのは不可能であろう。

映画では、「燃ゆるとき」において、外資を悪と描いていた。

いつか、外資の描き方も、学問的対象になるであろうことは、明らかであろう。その時に、この「どんど晴れ」とかを見て、思うんだろうね。日本人は、外資が嫌いなんだ、と。

●三輪『経済学の使い方』を少し読む

この本を少し読みました。まぁ、もっと、読んでも良かったのですが、どうも考え込んでしまうので、進まなかったということがありました。

この本では、徹底に、実証ということを大変に重視されている。そして、具体的に実証を行うことで、それまでの通念とかから脱却することを唱えている。私たちの周りに、如何に、実証とかを伴っていない通念とかが多いことを問題としている。

例としては、日本の高度経済成長期における政府の役割、ここでは産業政策が取り上げられている。僕なんかの理解では、日本の初期の経済成長期おいて、政府の役割は大きく、産業政策は大きな成果を挙げたということになっている。

しかし、著者は、この「通念」に対して、実証で戦いを挑み、ひっくり返そうとしている。中身の細かい吟味は、まだであるが。

まぁ、経済学の使い方、また、議論の詰め方とかについて、具体的な事例を通して説明されているので、大変、良い本だと思いました。

僕の卒論でも、本の要約では危険で、一つ一つ一次資料に基づきながら、事実を積み重ねていくことの必要性を感じた。日本研究なので、それ相当に、このことは進めていけるだろうとは、楽観視はしているのではあるが。

社会まで、如何にして、卒論に含めていくかが、僕の今の課題であろう。

あと、如何にして「通念」から脱却していくのかも重要である。具体的には、中村政則先生とか、渡辺治先生とかの、左翼系の先生の偏りに対して、どの程度、私は、相対化することができるであろうか。そのためには、安易な要約ではなくて、やはり、地道な研究が必要なのであろう。

上の偏りに対して、意識的にならなければいけないと考えたとのは、下の文献を読みながら考えたことである。

●『思想』を読む。

最新刊の『思想』を眺めました。1000号記念として、特集が組まれていて、今回は酒井先生を司会に間宮先生、中島先生の座談会の記録が載っています。

題は、戦後から1965年までの思想空間みたいな感じでした。僕は、卒論において、戦後の60年代まで見ていくつもりなので、何か面白い情報がないかどうかを探した。

率直に言って、面白かった。戦後における「保守」にも、2つの種類があることなどを知った。大きな議論として、戦後を「保守」と「革新」の対抗関係として描くことの単純さを痛感することになった。

どうしてはいけないということは分かったが、具体的に、どのように描けばいいのかについては、不明ではあるが。少し前に読んだ、米谷『アジア/日本』の戦後バージョンみたいな感じでしたね。

結局は、明らかなことなのですが、戦後においても、思想が重層的に絡まっているということ、そして、それを読み解いていかなければいけないということを、発見した。そして、そこにある戦前・戦時との「連続」と「断絶」にも丁寧に見ていく必要がある。

日本史における研究の蓄積が、今の段階においては、「戦後改革」あたりまでのようなので、僕の卒論が新しい何かを生むことができたらと、大きな野心を持って、取り組んでいきたいと考えている。


●図書館にて

今日は、図書館を出たところ、吉田先生とすれ違った。一瞬、本の批判をしようかと頭を過ぎるが、面識がないので、我慢した(笑)。

ただ、吉田先生にとって、僕は悪い学生であっただろう。というのは、昨年の冬学期の授業を毎回、前の座席で、寝ながら聞いていたので・・・。吉田先生の声を聞いた瞬間に眠たくなるので、辛かったな。

「敬老」の日

ゴードン『日本の200年』の上をやっと、読み終えました。久しぶりに江戸時代から戦時期までの歴史を勉強した。通史という形で、江戸時代から書いているので、「連続」ということに対して、大いに意識させられる本であった。

「断絶」と「連続」は、歴史学の重要な課題なので、僕自身も、卒論では、そのあたりの問題意識もクリアーにしておきたい。

ただ、通史なので、各トピックスに関しての記述は十分だとは言えないだろう。(日本の近代化・工業化が成功した箇所などに不足を感じる。)だけども、大まかな内容をつかむという点、また、読みやすいという点などを考えたときに、この本は良い本だと思う。感じとして、入江昭先生の『日本の外交』のようである。文章とかの流れが似ているような感じですね。

まぁ、明後日にでも、下巻を読もうと考えている。

本を少し整理していると、ウェーバーの本が5冊ほど、出てきた。読まなければいけないと、思うのだが・・・。こういう本の場合は、内容を理解したかどうかよりも、読んだかどうかの方が重要なんですよね(?)。

橘木『格差社会』を最終章を除いて、読んだ。日本の現状の格差社会について丁寧な議論がされている。そして、その深刻の度合いが深まっていることに対して、大きな危惧を感じる。

この本を読んだ目的の1つ目は、卒論において、ここで描かれているような書き方で、50年代とか60年代の日本経済を統計を使いながら表現したいというのがあった。読んで、僕に何が不足しているのかが、少し分かった。エクセルの使い方と、統計学の知識、一次データ。

2つ目の目的は、やはり今日の格差社会に関する問題関心だ。何が起きているのか、何が問題なのか、そしてどうすればいいのか?

この格差社会の話は、とても学際的な切り方が可能な領域であり、それは、この問題の難しさを逆に示していたりもする。そして、そこには、人の主観も大きな働きをするであろう。

主観ということを考えたときに、どうしても考えなければいけないのは、「自分は何か」ということであろう。どのように育ってきたのかとかとかの自分の歴史というものと、真剣に取り組むことが、必要であろう。

この点がきちんとできていない発言は、他人に対して、何も響かないだろう。自分自身の問題を相対化しながら考えなければいけないのである。

少し思いつきで問題だけを書くと、いわゆる「失われた10年」を子供時代に経た私たちは、どのような形で、自分自身の中に「影」を背負っているのだろうか。どのような形で私たちを形成することになっているのか。

私たちにとって、私にとって、「失われた10年」は何だったのか?そして、それは、どんな形で、私を私たちを規定することになっているのか。

眠たくなったので、以上。

2007/09/16

Bye the Clock

日本外交と「国連」


今年も、また、日本の首相や外務大臣は、国連総会に出席しないそうだ。

率直に言おう。なぜ、日本の姿勢を世界に「主張」できる絶好の機会をわざわざ捨てるのか!「主張する外交」なら、きちんと「主張」できる場所で「主張」しろ!

昨年も、自民党総裁選挙のために、国連大使が代理であった。今年も、同じそうである。

日本の政治家の外交音痴に、スゴク悲しくなる。

これは、まるで、世界に、日本は「主張」する内容を持たない図体だけがデカイ国家であるということを主張しているようなものなのではないか。

僕なら、ガツンと、日本の国際社会における役割を、言ってやりたいな。日本は、非軍事面で、世界で、NO1の「貢献」をする。日本は、憲法9条の理念を理解し、その理念に基づいて、世界での役割を果たす。

核兵器の開発及び実験について、いかなる国についても例外なく、反対する。そして、保有国に対しては、核の放棄を求める。


思い付きを書くと、戦後日本は所与としての国際社会に適応していったので、今日においても、適応していこうという傾向が強いのかもしれない。だから、国際社会において、日本が積極的に発言しようとしないのも、そこに原因があるのかもしれない。

しかし、日本は経済的に大きく成長していった。戦後日本が、国際社会に適応しようとしていった1950年代後半から60年代中頃までとは、大きく異なっている。そのあたりの「変化」に対して、きちんと理解することによって、また、相対化することによって、現状の見方も、より良いものになると考えている。

逆に、「変化」を理解できずに、昔のような認識を引きずっているいることは、「国家」の進むべき道を誤ることにつながるであろう。


面白そうな芸術家

インパクトの強い、考えさせられるような絵がある。


映画「釣りバカ日誌」を見たよ!


面白い映画であった。同時に、毎回のことではあるが、「地方」の活性化ということについても考えさせられるものであった。お時間と気分に余裕のある方は、ぜひぜひ、見てください。1000円で、見ることができますよ(皆、1000円)。

この映画は、毎回のように、軽く、そしてコミカルに描かれていて、僕は、スゴク楽しみながら見ることができる。

毎回、思うのではあるが、西田さんというのは、スゴク魅力的で、「独特」な雰囲気のする役者ですね。何か、スゴイ感じがします。このスゴサは何に起因するのだろうか。ある方は、声が良いと言っていた。これは、深い問題ですね。

でも、「釣りバカ」に限定して考えると、やはり、この「ハマちゃん」のキャラクターにも、惹かれる部分があるのも事実ですね。人生を楽しんでいる。100%で楽しんでいる。そして、その周辺にいる人々をもハッピーにさせる。

僕は、このキャラクターに、一つのワークライフバランスのあり方を見ている部分がありますね。そして、僕自身も、そのような生き方に、共感しているんですよね。

さてさて、今回は、壇れいさんが、「ハマちゃん」ガールとして、出演されていました。壇さんは、スゴクきれいな方ですね。声が、何となく印象として残っています。サントリーのCMも、スゴク印象的ですよね。

そろそろ、「地方」の活性化という点について見ていきましょう。明らかに、この作品は、そのあたりについて、意識していたでしょう。それは、例えば、開発の中止が決まった後の飲み会での若者の「若者が町を守り、作る」のような発言から分かる。

そして、「地方」というのが衰退している中において、今必要なのは、若者の力であり、団結であり、アイデアであることを考えると、この発言は、それを後押しするものであったのであろう。

少し前に、湯布院に行き、そこが活性化している一つの理由は、若者の存在であるということを感じました。若いということの持つエネルギーの大きさに、僕自身も21歳でまだまだ若いのですが、再確認させられたような感じがします。

また、どちらか言うと、そういう「若さ」は、どんどん出していっていいのだということを考えさせられた。それは、お寺のお母さんの方の発言から若者を応援しているということが伝わり、社会を動かすのは若者であり、それを応援してくれる大人はいるということを表現していたのではないか。

行動するか、行動しないか。社会を動かすのは、大人ではなくて、若者なのだということを感じさせられた作品であった。そういうメッセージが強く感じさせられる映画であった。

また、最近、「流行っていない」社会運動を肯定的に描いている点も印象的であった。時代の変化を感じさせられる映画なのかもしれない。

博士が100人いる村


ここで描かれていることが、どの程度、事実に基づいているかは、不明である。

しかし、最後に描かれていることから思ったことは、日本において、人材の活用が上手くなされていないということである。つまり、相当な知識や能力を持っている人たちを社会で生かしていくというメカニズムが、日本では、欠如しているのではないか。または、彼らを使うことができる人が少ないのではないか。

例えば、今日、学校の先生のレベルの低下が問題とされている一方で、他方では、博士の使い捨てが起きている。必要とされているところで、足りずに、他の場所では過剰に供給されている。この事態を、改善することはできないのか。

僕は、「制度」を改めることによって、比較的容易に、この問題を直すことができるのではないかと思う。例えば、修士にあがる人たちに、教職免許の取得を義務付けたりすることなどが考えられるであろう。

社会というのは、「制度」とかによって、強く規定されている。これを改善することによって、社会をより良い方向性に持っていくことができるという点において、「制度」設計という仕事は重要だし魅力的なのだと思ったりもしています。

●今日からの課題

毎日、「私の履歴書」を一人以上を読む。

理由:ミクロな視点から眺めることで、より深い歴史分析をする。

今日:今村昌平『映画は狂気の旅である』

2007/09/14

Book Report

●吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波書店、2007年。を読む

戦後世代だが、戦争経験世代からの影響を強く受けた研究者の「アジア・太平洋戦争」の描き方を批判する。僕には、この本が、確信犯的(?)に、東条、天皇、政策決定者たちの戦争責任を、描いているようにしか思えない。というのは、そこにあるのは、「国家指導者たちの誤った政策の犠牲者」としての国民しかないからである。

Digest:
①「アジア・太平洋戦争」について
 ・「アジア・太平洋戦争」について、本書では、41年12月に始まり45年9月の降伏文書調印で終わった   戦争、とする。
 
 ・『岩波講座 アジア・太平洋戦争』では、満州事変・日中戦争・「太平洋戦争」という一連の戦争を、「アジア・太平洋戦争」という広義の概念で把握することを提唱。
 
 ・この問題関心を継承しつつ、本書では、「太平洋戦争」にかわる戦争の呼称として、「アジア・太平洋戦争」と呼ぶことにする。それは、他の呼称を見出せないからである。

②問題意識
 
 ・現在の日本社会について、「1991年の湾岸戦争の頃から」「戦争の現実、戦場の現実に対するリアルな想像力が急速に衰弱している」と見ている。そのために、「報道の渦のなかで」「最前線の塹壕の中にはいつくばって死の恐怖と戦っている兵士の存在や、戦争にまきこまれた民間人犠牲者の存在は、すっぽりと抜け落ちていた」のではないか。歴史学は「直接に体験していない事象を想像する」ことを可能にする役割がある。「そうした戦争や戦場の現実に対するリアルな想像力」を歴史を使って、「回復」するのが、1つ目の問題意識。

 ・「戦後処理は、日本人の意識の中でも、まだ終わっていない」、「戦争責任[1]という問題に対して正面から向きあってこなかった」、と感じている事実がある。「こうした状況を踏まえ、本来ならば戦後処理の前提となるべきはずの戦争責任の問題を強く意識しながら、アジア・太平洋戦争の時代を自分なりに再構成する[2]」というのが2つ目の問題意識。

 ③本書の構成
 はじめに
 第1章 開戦への道
  1三国同盟から対米英開戦へ
  2戦争の性格
  3なぜ開戦を回避できなかったのか
 第2章 初期作戦の成功と東条内閣
  1日本軍の軍事的勝利
  2「東条独裁」の成立
 第3章 戦局の転換
  1連合軍による反攻の開始
  2兵力動員をめぐる諸矛盾
  3「大東亜共栄圏」の現実
  4国民生活の実情
 第4章 総力戦の遂行と日本社会
  1マリアナ諸島の失陥と東条内閣
  2戦時下の社会変容
 第5章 敗戦
  1戦場と兵士
  2本土空襲の本格化と国民
  3戦争の終結へ
 おわりに
 あとがき

 ④「戦争認識」「平和意識」について(「おわりに」の要約)
  ・「前線と銃後の悲惨で凄惨な現実」
   →戦後の日本社会の中に、軍隊や戦争に対する強い忌避感や国家が掲げる
大義への根深い不信感を定着させることに。
  ・「冷戦への移行」
   →(国際政治)「寛大な講和」
   →(国内政治)公職追放の解除
     →戦争「指導者の国民に対する責任が曖昧に」
 
 以上の事態が、国民意識の上に影響を与える。その結果、以下のような平和意識や戦争認識が生まれることになる。

・「加害の記憶が封印され、国民は戦争の犠牲者であり被害者であるという認識を基盤にして、独特の平和意識が形成された」「そうした平和意識は、アジアに対する加害の歴史を忘れさせることによって、はじめて成り立っていた」
 
・「国家指導者に対する反感や不信感」が、「被害者的な戦争観と結びつくことによって、戦争の責任は軍人を中心にした国家指導者にあり、自分たちは国家指導者たちの誤った政策の犠牲者だとする国民意識が広範に形成された」。それだけに、「戦争責任の問題が、なし崩し的に曖昧化されたことによって、多くの国民が割り切れない思いを抱くことになった」
 
・「冷戦の論理」によって、日本社会は戦争責任、戦後処理の問題にひとまずの決着をつけた。それは、経済復興から高度成長へと突き進んでいく時代の中で、戦争時代を「遠く過ぎ去った過去」、「振り返るに値しない過去」とみなす風潮を生んだ。そして、そのことは戦争体験世代に対して戦争体験を語ることを諦めさせるように働き、戦争体験の継承を妨げることになった。

 しかし、以上のような戦争認識や、平和意識は大きな岐路に立たされることになる。
 
 ・アジア諸国からの対日批判の本格化
   →被害者としての自己認識を基盤にした平和意識は通用しない
 ・戦争体験世代の急速な減少
   →直接の体験や実感に支えられた戦争認識や平和意識に大きなかげりが見え始めた

 今日の戦争認識や平和意識というのが、「直接の体験に基づかない『戦争の記憶』の占める比重が決定的」になりつつある。


Impression on this book
 ①「国家指導者たちの誤った政策の犠牲者」としての国民しか描けていないのではないか。加害者としての国民を如何に描くか? 

  例えば、東条は、「総力戦の時代の政治指導者」として、「メディアを意識的に利用した最初の政治家」であった。また、「絶えず国民の前に姿を現わし、率先して行動し決断する戦時指導者という強烈なイメージをつくり出そうとしていた」。これは、東条が「総力戦の時代は、多数の国民の積極的な戦争協力を必要不可欠なもの」とし、「そうした時代にあっては、力強い言葉と行動で、直接国民に訴えかけるタイプの政治指導者が求められる」ということを、理解していたからだという。
  
 こうして、東条の「作戦」は、成功し、「各地で国民に熱烈に歓迎」されることになる。そこで描かれるのは、東条の「作戦」に騙された国民である。
  
 どうして、このような描き方がされるのか。それは、「国家指導者に対する反感や不信感」を基底にしているからではないか。

 日本国民を「犠牲者」としてだけ描かないためにも、積極的に戦時体制を支えた部分や、戦場における兵士の戦争犯罪とかの加害の部分について、見ていく必要があるのではないか。

②「社会変容」について
 第4章の2節では、総力戦の遂行が、経済だけでなく、旧来の社会秩序や社会関係を大きく変化させたという歴史的現実について描かれている[3]。結果、日本社会の近代化・現代化[4]が進行することになった。

 ここでは、総力戦の遂行の結果、会社組織の「所有と経営の分離」が進行や、農村における規制地主制の後退などが描かれている[5]

 総力戦の遂行が部分的に近代化・現代化を進めたことは確かであろうが、しかし、新たな矛盾を生み出したことも忘れてはいけない。この節では、この点が欠落している[6]。 

 例えば、総力戦の下において、労働力不足を補うために、朝鮮の民衆に対して「強制連行」が行われた。

③株について[7](面白かった点)
  戦争中でも、マーケットが開いていたことに驚く。マーケットは、社会の動きに、いち早く反応して、上下するという、よく聞く話を、ここで確認させられた。
  
[1] 「日本国家と日本人の対外責任の問題だけでなく、日本の国家指導者たちの国民に対する責任の問題も視野に入れて考えたい」(p.ⅲ)

[2] このことに関して、「戦争の時代と地続きの時代を生きてきた」世代の研究者としての「果たすべき責務」としている(「あとがき」より)。

[3] アメリカナイゼーションについては、少し横に置いておく。

[4] 「近代化」「現代化」について、著者は、定義をしていない。これらの言葉遣いに関して、人によって、違うようである(山之内靖「方法論的序論」『総力戦と現代化』p.46)。
 例えば、森「総力戦・ファシズム・戦後改革」では、以下のように区分することを提案している。「『近代』を富と教養を独占したブルジョアと地主による名望家社会として規定し、『現代』をそれまで疎外されていた労働者と農民主体の登場による民主化・組織化・大衆化を前提とした大衆社会として規定し、両者を明確に概念区分すべきと考える。・・・」

[5] 他にも、労使関係、女性の社会進出、伝統的な「家」制度の解体、学生の軍隊経験が書かれている。
 少し「学生の軍隊経験」について見ると、「学徒兵は、当時の同世代の若者の中で、2-3%を占めるにすぎないエリート集団である。その彼らの軍事経験は、この国の学問や文化のあり方にも大きな影響を及ぼしているはずである。そのことを、さまざまな角度から多面的に検証してみる必要があるだろう」とある。これは、おそらく、吉田先生の先生である、藤原彰先生とかを念頭に入れての文章であろう。

[6] もちろん、全体を読めば著者がこの点を無視していないことは分かる。この節は、アメリカナイゼーションの議論を含めて、戦時・戦後の連続説を要約したものと見ることができるであろう。

[7] p.203-204。p.215。において、株式市場について言及されている。


●これからの予定
24日から27日まで、東京を離れます。

そのために、23日までに、様々な課題をこなす必要があり、頭がガンガンしております。まぁ、楽しんでこなしていこうと思います。

2007/09/12

「しんちゃん」退陣に思う

●「しんちゃん」退陣

まずは、驚きましたね。そのタイミングの悪さに。「どうして今、止めるの?」って感じですね。

二つ目に思ったのは、その弱さに、何かしら考えさせられるものがあったような感じがします。というのは、いわゆる「ボンボン」病のようなものが感じられた。

「ボンボン」病というのは、「甘く」生きてきた人間がかかる病気でしょうか。

「しんちゃん」を見ながら、自分の「ボンボン」病について考えさせられた。

まぁ、この「危機」をチャンスに変えてもらいたいですね。そのためには、この機会に民主党がきちんと考えられた政策、を出すことが必要なのではないか。それが、政権政党を担うための必要十分条件だろう。

そしたら、自民党も、それに触発されて、具体的で考えられた政策を出してくるだろう。

結果、日本においては、きちんと考えられた政策が実行される国に変わることになるのではないか。

よって、ここでの民主党の動向が注目される。


●「自画像の肖像」展に行く

今日は、上野の東京藝術大学の美術館に、自画像を見に行きました。これは、少し前のNHKの番組で取り上げられていたもので、歴代の学生の卒業制作である自画像の一部を、明治から現代まで、並べたものである。

一度は見てみる価値はあると思います。

僕は、自分と同世代の人たちが、どのように表現するのかについて、興味がありました。僕も、情報を加工して、自分なりの表現をしたいと考えているので、同じように「表現」というものに悩み考え行動している同世代に対して何かしら関心があります。

特に、2階で展示されていた作品については、5回くらい見回ったのですが、どうも、その感想というのが、出てこないんですね。率直に言うと、心に、ガツン、と来る作品がなかったからかもしれません。でも、見ていて、面白いと、思ったものはありましたけどね。

ただ、いくつか残念だと思ったのは、自画像を描くということなのに、自画像を描いていないの作品が散見されたことがありました。僕なんかは、それは逃げだと思いますけどね。だから、何かしらの形で画面上に自画像を描く必要があったのではないかと思いますけどね。

自分を直視できなくなったから、逃げで、理屈を作成して、抽象的な世界に逃げただけなのではないか。そういう点では、1階の作品の方が、直視していた。

そんなわけで、いろいろ悩みが多い方は、この美術展(あと少しだと思うので要注意)に行ったり、『のだめカンタービレ』を読んだりしながら、考えてみるのも、良いのではないでしょうか。


●吉田『アジア・太平洋戦争』を読む

この本を何回か読んでいるのですが、批判してやろうと読むと、そんなことできなくて・・・。

いくつか思うことを書くと・・・

ここでは、41年の12月から敗戦までを「アジア・太平洋戦争」としているが、岩波講座では、もう少し広い概念として「アジア・太平洋戦争」を位置づけている。この2つの関係性は、どのようなのかが書かれていないのが、少し気になる。

つまり、広い概念の中での狭い概念としての「アジア・太平洋戦争」とは何かとかの言及が、必要なのではないか。そうしないと、わざわざ、前回において、広義の「アジア・太平洋戦争」を設定した意味がなくなるのではないか。そして、逆に、広義に設定する必要性も、また、その問題関心も希薄化してしまうのではないか。

この本は、吉田先生の岩波講座の「総括」に当たるようなものだと思うので、岩波講座との関連について言及して欲しかった。


アジア・太平洋戦争が、日本の国内においても一枚岩ではない様子が書かれていたのが興味深かった。息子の死に対して、悲しむ母親。夫や息子の出征に対して、反対を役所でお願いしている母親や妻。

どうして、このような記述が必要なのか。それは、戦時期というのが、まったく「非日常」なモノではなくて、「日常」の上にあったということを、思い起こさせるためであろう。しかし、戦時期には、その「日常」を封殺し、「非日常」を押し通そうという周りからの圧力などがあるということも同時に考えさせられることである。


いわゆる「戦後歴史学」の系列にいると考えられる吉田先生が、戦時期において、様々な変化が、「近代化」や「現代化」に結びつく変化を起こしたということを書いていることが、少し印象的だ。

以上、眠たくなったので・・・。

2007/09/09

お知らせ3

暑いですね。

今日から、治療のために、田舎に帰ります。

11日の夜の飛行機で帰る予定です。

治療と言っても、左肩が痛いというものであって、大したことではありません。

では、では、皆様、良い夏休みを。

そうそう、院試がある方は、最後の追い込み、頑張って下さいね。

2007/09/07

雨フル、肩ガ凝ル

●卒論について

ゼミ合宿から帰り、一休みという感じで昨日・今日と過ごしています。まぁ、少しの間、卒論の中間報告のために、悩み考えタイピングしていたから、その反動と言うべきものでしょうか。

さてさて、卒論の中間報告も、まぁ、そこそこ、上手くいき、少なくとも、先生に酷評されることはありませんでした。ただ、この内容というのは、まだまだ、僕の目指している内容の前座でしかなくて、本番はまだまだです。

そういうわけもあり、先生に酷評されることはありませんでした。まだまだ、前座でしたからね。というのも、僕のしたいのは、結局は、政治-経済-社会のトライアングルを統一的に理解するというところにあります。

今回の報告では、政府の役割しか、ほとんどフォローできませんでした。まだまだ、勉強不足です。この点については、明らかですけどね。

僕の感覚的な感じからすると、「高度経済成長期」の研究をサーベイすると、政府―経済が中心の東大系の経済史があったり、また社会史のみの社会史研究があったりするという感じですね。つまりは、社会-政府-経済のトライアングル全てを統一的に把握するという研究が抜け落ちているのではないかという感じがします。

どうして、社会まで、射程を広げる必要があるのか?それは、高度経済成長期が、就業人口の構造を大きく変化させるものであり、そこには、具体的な人々の「人生」に大きく規定されている面があるのではないか。もしも、そのあたりを捨象して歴史を見るのは、もちろん、そこでは所謂、経済発展のメカニズムは見ることはできても、それを支える大きな構造を見失うことになるのではないか。

例えば、経済発展を支えた要因の一つには、財政投融資があり、それを支える高い貯蓄率が裏にはあったわけであるが、それはどうして可能であったのか。これについては、社会面からの分析が不可欠であり、それをしないと、高度経済成長期というものの、「本質」を見失うことになるのではないか。

そして、そのことは、今日の経済問題に関しても、社会との関連を切り離して見てしまうという「間違い」を犯してしまうのではないか。

所謂「一橋大学学派」においては、経済-社会-政治を統一的に把握するというのが、テーマだとのことなので、まぁ、僕の研究は一橋大学らしい研究の一貫と言えるものかもしれません。

社会との関連で、卑近な例で言うと、「ALWAYS3丁目の夕日」において掘北真希さん演じる「六ちゃん」は「集団就職」で東京に来るという話がありました。日本の高度経済成長期においては、このように「金の卵」として、田舎から都会に若者が「移動」してきたのです。僕にとっては、彼ら彼女らをミクロな視点から具体的に描くことが重要だと思います。そして、その中で、マクロな変化に如何にして巻き込まれていったのか。

話を変えましょう。

●『史学雑誌』について

今日は、『史学雑誌』第116号第5号をブラブラ眺めていました。特集として「2006年の歴史学界」という特集が組まれていました。

一番考えさせられたのは、「どうして歴史を学ぶの?」「どうして歴史なの?」という感じの素朴でシンプルで痛くて辛くて苦しい問いでした。そして、この点が各自、自覚的に悩み苦しみながら解答しないと、その歴史は、懐古趣味や趣味でしかないということを痛感しました。

この質問にどれだけ真摯に答えられるのかが、その「歴史家」の力量を示すのではないのかという程度思いました。

まぁ、内容では、日本史の現代史において、少しは参考になりましたが、高度経済成長期の部分は少なくて、物足りないというのが、率直な感想です。

世界中の歴史を全ての時代フォローしている(アフリカとかはあったかどうかは忘れたけどね)けども、その分け方が、国単位だったので、何となく、古いという感想を持ちました。それをするなら、グローバルヒストリーをどのように考えるのかという部分も欲しかった。各国史を超えた歴史を書く必要性があるか中で、そのあたりは、どのように考えているのか。

ヨーロッパの現代のフランス(上原良子先生記述)で面白い部分があったので、そこを以下では引用します。(p.372)「20世紀後半における国民国家の変容については近年『ヨーロッパ化』(EC/EUが各国の政策を拘束し、各国政府は調整手段を喪失)をめぐる議論が盛んである。しかし、権上康男の60年代から70年代を対象とする実証研究の総括といえる『欧州通貨統合を考える』(これは論文です)によれば、①同期間のフランスは経済政策の収斂の前に通貨統合の実現を目指したというより、そのマネタリスト的主張はドル支配に楔を打ち込むための政治的戦略であった、②70年代後半においては新自由主義的経済政策の中で国家の自立性はむしろ損なわれることはなかった、と結論づけている。権上の一連の研究はヨーロッパ統合史研究においても通説を大きく塗り替えるであろう。」

国民国家の変容ということが、なかなか進んでいないということを示すことの一つの反例になるのかもしれませんね。というよりも、社会-経済-政治全てにおける「連続」と「断裂」を丁寧にフォローしながら構造的に把握し、その中で、丁寧に「変容」を描く必要があるのかもしれませんね。

無理やりに、「変容」を強調するのは、今日への過大な期待か、今日の現状分析を見誤っているか、とかに起因するようになるかもしれませんね。

まぁ、難しいですね。


以上・・・

追伸:
『のだめカンタービレ』を読む。登場人物に自分を重ねて、いろいろ考えさせられるものがあった。例えば、留学中の黒木君とか、RUIとかですね。あと、最初の千秋とかですね。そろそろ、僕も、『のだめ』から卒業の時期のようですね。『のだめ』について議論できる方、募集中。・・・・・(笑)。。。

2007/09/03

『のだめ』に、感動する!

卒論中間報告

2007年9月3日
芋月俊博
1.問題関心
 
①「国家」に対する考え
 「冷戦」の崩壊以後、自由主義経済が世界中を覆うようになった。自由主義経済下においては、世界中をモノ・ヒト・カネ・ネタが国境を越えて、瞬時に行きかい、「光」と「影」の両面において、様々な変化を引き起こしつつある。この変化の中で、日本の政治・経済・社会も既存の枠組みでは対応できず、「改革」が求められている。具体的に、中曽根内閣による改革から、橋本6大改革、そして小泉構造改革へと、日本は、自由主義的な枠組みに適応できるように、「改革」進められてきた。結果、日本は政治・経済・社会の全ての面において、大きく変容しつつある。

この一連の改革は、もちろん、国内から求められた内発的な側面があったことは事実であろう。しかし、海外からの「圧力」によって、国内改革が進められた側面もあるであろう。カネ・モノ・ヒト・ネタの国境を越えた大きな流れは、これまでの「国家」の役割を後退させるように働いているように思われる。日本においては、「小さな国家」が大きく唱えられた。 今日では、その構造改革の結果、不利益を被っていると考えられる人たちが日本の中においても、そして、世界においても、相当数いることが考えられる。そして、その内には、既存の「国家」の役割が健在であれば、「救済」されていた人たちもいるであろう。また、世界的な大きな変化に対しても、「国家」は、それに対応して、「救済」を図る必要があることも当然である。 「グローバリゼーション」とは何かは、まだ不明であるが、少なくとも、巨大な資本とかが、国境を越えて、国境をぶっ壊して、世界を均質な市場にして、そこで利益を生み出そうとする側面があることは考えられる。そこでは、エコノミーの論理が優先し、福祉などの面が失われ、多くの人々が、「国家」による「救済」も受けることができなくなり、苦しい境遇に貶められるということは十分に考えられる。「国家」による「救済」を受けることができない中での「貧困」などの「構造的な暴力」は、もちろん単線的に結びつくわけではないであろうが、「テロ」などを生み出す土壌になっていることは十分に考えられる。そして、低くなった国境を越えて、「テロ」が世界中に広がり、「見えない」脅威が私たち一人一人に圧し掛かってきている。

もちろんであるが、「グローバリゼーション」は「影」の面ばかりではなくて、「光」の面もあり、私たちは、そこから大きな利益を得ている。世界中がインターネットで結ばれることにより、私たちは、世界中の「知」「ネタ」などに、容易にアクセスできるようになった。また、これまでよりも「自由」に他国に留学や観光などで、行くことができるようになったということも指摘できるであろう。結果、様々なレベルでの「交流」が行われるようになり、他国のことに対しても、より強くシンパシーを持つことができるように変化しつつある。

このような中で、「近代主権国家」を基礎とする近代国民国家体系が変容しつつあると考えることは、自然なことなのではないか。具体的には、ヨーロッパにおけるEU統合の「拡大」と「深化」は、私たちに、新しい国際秩序の可能性を感じさせる。少なくとも、自国の最適化を図ることを追求する「近代主権国家」は、「グローバリゼーション」によって、変化を余儀なくされていることは明らかであろう。
私たちは、インターネットなどによって、他国を知り、他国のことに関して、無関心ではいられなくなった。つまり、他国で苦しんでいる人々を無視することはできなくなり、彼らに何かをしなければという感情を沸き起こさせるように、私たち自身の認識が変化しつつある。また、他国にまで広がる「テロ」も、その原因の一部は、その当事国の「破綻」であり、それを、他国が、利他的な動機(その当事国の市民に何かしなければいけないという感情とかなど)にしても、利己的な動機(「テロ」が自国に及ぶのを防ぐなど)にしても、無視することはできないし、してはいけない。「国境を越える医師団」などの活動が、このような変化の先進的な取り組みとして捉えることができるかもしれない。
ただ、ここでは、「国家」の役割が小さくなり、「国家」の役割が「超国家的」な組織や、「国家」よりも「ローカル」な組織に移るということを指摘したいわけではない。もちろん、これまで「国家」が独占してきた役割を他のアクターに移すことは重要であると考える、そのことについて考えることも重要であろう。しかし、ここでは、既存の「国家」が、「グローバリゼーション」によって、大きく動揺しつつある中での「国家」の役割について検討していきたい。私は、「国家」の役割は、依然として重要であると考えている。
それは、グローバリゼーションという 巨大な流れに対して、抵抗できる、今考えられる主体は(もちろん国家だけではないが)、その有効性実効性も考えると、「国家」しかないのではないか。(「超国家的」組織や「ローカル」組織に対しても、大きな期待を寄せてはいるが。) もちろん、単なる、自国内の自己最適を諮るだけではダメだということは明らかではあるが、ただし、上でも確認したが、国家に何かしらの役割があるということも明らかであろう。グローバリゼーションの中で、国家は如何にして、あるべきなのかについて、「歴史」を使って考えていきたい。

②高度経済成長に対する考え
明治期において、日本は「後進国」として国際社会に入っていた。しかし、その後の急速なる「近代化」の結果、戦前においても、「先進国」の仲間入りをするまでにいたった。どうして、日本は「近代化」することに成功したのだろうか?特に、ここでは、どうして、経済的な発展を遂げることができたのだろうか?
1つには、日本において、「近代的」な技術を受け入れるだけの基盤が存在していたということが指摘できるであろう。つまり、明治以前において、商品生産がそれなりに発達していた。結果、「近代的」な技術を受け入れ、それを発展させることができるだけの余地があった。2つ目は、日本がヨーロッパ工業経済の衝撃を「政治革命」に転化させることによって、植民地化の危機を免れることができたという点が指摘できるであろう[1]。薩摩や長州は、いち早く西欧艦隊との戦闘を経験し、西欧軍事力の強大さと、その背景にある国富と工業化の関係に気がついた。そして、その後、幕府を打倒し、西欧型近代国家建設が進められていくことになる。明治新政府は、その後、「近代化」を急速に推し進めていくが、植民地化への危機感を忘れることはなかった。というのは、彼らは工業化に関して、全面的に西洋人の技術援助が必要であるということは確信していたが、同時に、西洋人の直接投資による工業化は植民地化の危険性があるということも認識していた。
 簡単化して言うと、在来の産業そして、「近代化」の受容における政府の適切な政策というのが、戦前の日本の経済発展の初期に大きな貢献を果たした[2]
 その後、日清戦争・日露戦争、第1次世界大戦などと「戦前」において日本は発展を遂げていった。そして、日本は「戦時統制」の元で、政治・経済・社会面における変革を経て、敗戦を迎えることになった。そして、その後、GHQによる「戦後改革」が次々となされていくことになり、「1950年代」の様々な政治的・社会的・経済的な変化を経て、「高度経済成長」にいたることになる。
 原先生[3]は「農地改革を経て、高度成長による工業部門の急拡大の結果、明治以降もゆるやかに進行しなかった農業人口の分解が一挙に展開することになったのである。さらに長期的な観点からみれば、弥生時代に形成されてから連綿として続き、農地改革によってもなお解体されなかった農業共同体が、高度成長期の間に大きく崩れ始め、解体への道をたどることになったのである。その意味では、高度成長期における経済構造の変化は、農地改革・地租改革・太閤検地などを飛び越えて、はるか2千年前の弥生時代における変化に匹敵するといってもよいと思われる」と述べている[4]。農村を解体させるほどの都市における経済の変化が高度経済成長期に起きた。そして、それと同時に、農村でも、経済の変化が起きていったのであろう。高度経済成長期は、その前の時期とは、一線を画する変化が起きたというのは、感覚的に私は了解できる[5]。でも、実際、高度経済成長期において、どのような変化が起きたのだろうか。
 この卒論では、1960年代の高度成長の構造変化について、その「連続」及び「断絶」ということを意識しながら、「高度経済成長」について考えていきたい。そして、「高度経済成長」について調べる中で、今日につながる政治・経済・社会の構造についても考えてみたい。このことを通して、より深い現状分析につなげられるように、考えてみたい。
 そこで、この卒論では、日本の経済自由化(貿易そして資本の自由化)への過程において、どのような国内対立、そして政策が成され、その結果はどうであったのかについて見ていきたい。 これは、最近でも、2007年の5月に改正会社法が施行されるにあたって、その前後においては、大きな外資恐怖論が、日本社会で起きた[6]。三角合併の解禁によって、外資による日本買いが増えると考えたからであろう。 同じようなことは、戦後日本の経済が成長しつつある中の50年代の末から、60年代にも起きた。この卒論では、60年前後において、日本と国際社会が接触するときについて、主に、それを受けての経済政策や、その政治過程について見ていき、日本が如何にして、国際社会・グローバリゼーションに適応していけばいいのかについて考えていきたい。
 「中進国」として、占領後、日本は歩んできたが、その日本が、どのような発展を遂げて、「先進国」と経済的に平等に競争しようとするまでにいたったのか。このことは、現代日本が経済大国として世界において大きなプレゼンス持つにいたる大きな変化がそこにあったのではないか。日本の経済大国へのステップとして、この国際化への過程を見ていきたい。
2.テーマの設定[7](今回の報告の内容について)
・統計などを使って、1950年から60年代の日本の経済を概観する。国際的な比較の中で、決して、当時においては、経済的な競争力を持っていなかったということを示したい。
・資本の蓄積、設備の近代化を至上課題とする日本が、いかにして、それを実現しようとしたのか。ここでは、経済政策に着目して見ていきたい。
・「貿易為替自由化大綱」に至るまでの、日本の経済発展について見ていき、どのような
状況において、自由化を進めていくのかについて見ていく。
 ・どのような反応・対応が企業及び社会そして政府において、なされたのかについて、見ていく。(この点については、十分に触れることができなかった。)
 
3.1950から60年代の日本経済の概観
 
①日本経済の規模
第2次世界大戦前の日本は、植民地を有しており、すでに先進国に属していた。しかし、戦前でもっとも豊かだったとされる1930年代中頃においても、人口一人当たりの実質GDPは、アメリカの3分の1、イギリスの3分の1、フランス2分の1、オランダの2分の5程度だった。そして、チリやアルゼンチンよりも低く、「先進国」の後尾にかろうじて連なっているにすぎなかった[8]
戦後直後においては、敗戦による経済水準の低下と回復の遅れは欧米諸国よりも著しく、1950年には、日本の人口一人当たりにGDPは、アメリカの5分の1、イギリスの4分の1、フランスの3分の1、オランダの3分の1程度になり、その差は、拡大し、「先進国」のグループから脱落したということができるだろう。ちなみに、当時日本はアルゼンチンの3分の1、チリの2分の1程度でもあった。
1950年の日本の人口一人当たりのGDPは、韓国や台湾の約2倍、中国やインドの約3倍であったと推計されている。途上国とまでは言えないが、日本は、アジアの国々と先進諸国との中間に位置していた。1950年代に、「中進国」という表現がしばしば用いられたが、まさに当時の日本は、「中進国」であったのである。
1960年になっても、以前、アメリカの3分の1、イギリスの2分の1、フランスの2分の1、オランダの2分の1程度であった。50年と比べると、状況が改善していることは明らかではあるが、その差はまだ大きい。その差がほとんどなくなるのは、1960年代の末まで、待たなければいけない。
 人口一人当たりのGDP[9]について見てきた。次に簡単に人口規模[10]について見ると、日本は、1820年からずっと、「先進国」内においては、アメリカを除くと、最も多くの人口を抱えていた。1960年において、日本はアメリカの2分の1程度ではあるが、イギリスの1.8倍、西ドイツの1.5倍であった[11]。「先進国」内においては、日本は人口の多い国であるということが確認された。また、実質GDPを他国と比較した場合、1964年にイギリスを、66年には西ドイツを越えるまでに急成長し、アメリカに次ぐGDPを有するまでにいたった[12]
 
②日本の産業構造の高度化
1950年から1973年までのGDP成長率は年率9.2%で、これは、同じように戦後高度成長を記録した西欧諸国を大きく上回るものであった[13]。結果、わずかの間で、日本の産業地図が激変することになるのである。
 就業者の産業別分布[14]について見ていきたい。1950年の日本の農林水産業は、48.3パーセント、鉱工業には22.6パーセント、サービス業には29.1%が従事していた。それが、高度成長を経た1973年になると、農林水産業は13.4%、鉱工業は37.2%。サービス業には49.4%となった。明らかに、農林水産業従事者が鉱工業またはサービス業へ流れたことが確認される。この就業人口構成の変化のテンポは、非常に速いものであった。他国との比較をすると、米国は1950年において12.9%、33.6%、53.5%であったのが、1973年には、4.1%、31.2%、64.7%であった。英国は1950年においては、5.1%、44.9%、50.0%であったのが、1973年には、2.9%、40.3%、56.8%であった。どの国においても、農林水産業からの移動が見られる。しかし、日本における農林水産業従事者の48.3%から13.4%の変化は、他国と比較したときに、その規模からして、あまりにも巨大である。日本における高度経済成長のインパクトの大きさが推察される。この就業人口構成の変化のテンポは、世界史的に見てきわめて早い、注目すべきものであった[15]、そうである。
上で見た、日本の第1次産業人口の減少と第2次産業人口の増大は、産業構造の急速な重化学工業化によるものであった[16]。1950年代前半までは、経済界もまだ重化学工業化の確信をもっておらず、鉄鋼・自動車・電気産業などは、日本に不要であり、製品輸入をすればよいとの意見があった。しかし、設備や技術面で、戦時経済の「遺産」が存在したことなどもあり、重化学工業化が、進行していった。この時期の重化学工業化をリードした業種は、次の3つのタイプに大別することができる。すなわち①戦前にある程度の基礎が固まっていた鉄鋼業や造船業[17]などの資本財産業②戦前すでに萌芽的に登場していたが、確立段階までにはいたらなかった自動車、家庭電器などの耐久消費財産業、③戦後になって初めて登場してきた石油化学、合成繊維、テレビ、電子工業など、の3つがそれである。
 これらの業種を産業構造の世界史的展開と関連付けてみると、①のタイプは世界史的には19世紀末から20世紀初頭にかけて確立したもっとも古典的な重工業であり、②のタイプはアメリカを舞台として、第1次世界大戦後の1920年代に本格化した業種であった。③のタイプは、おもにアメリカを舞台として、第2次世界大戦中から戦後にかけて確立した世界史的にも新産業に属するものであった。
 このように見ると、1955年以降の日本の重化学工業化の特質は、欧米諸国とくにアメリカにおいて20世紀初頭、20年代、さらに第2次世界大戦中・後と、いわば3つのピークを描きながら展開してきた重化学工業の諸業種が、10年ほどの短期間に同時並行的、集中的に発展・成長したことにある[18]
 次にその発展のメカニズムについて見ていきたい[19]。重化学工業化によって、年間の民間投資や、民間資本ストックが大幅に増加した。そして、そこには、「投資が投資を呼ぶ」メカニズムが存在していた。
 高度成長期の重化学工業化は、それを推進する3つの主要な柱=産業連関の3系列を有していた。第1の系列は、鉄鋼・金属・窯業土石―建設・土木―不動産の連関である[20]。第2の系列は、石油―化学・電力の連関である[21]。第3の系列は、銑鉄・粗鋼―鉄鋼一次製品―、一般機会・電気機械・輸送機械の連関である[22]
 このように高度成長期の重化学工業化は、この3系列への主要な産業連関の集中、系列内内部循環の確立として進行し、3系列内部の相乗作用[23]が累積的に進行した。そして、国内の最終需要と輸出の拡大が、この過程を一層加速させた。高度成長期を通じて、生産の増大、雇用の拡大、新設備の導入が、絶えることなく進んだのである。
 こうして重化学工業化が「投資が投資を呼ぶ」というメカニズムで進んでいったのである。ただ、注意すべきことは、重化学工業が大規模な技術革新やエネルギー革命を伴っていたということである。そして、その大規模な技術革新の大きな特徴は、外国技術の導入[24]によって、初めて可能になったということである。

 この章では、最初に戦前からの世界における日本の経済的な規模について、一人当たりのGDP及び人口、そしてGNPについて見てきた。一人当たりのGNPにおいては、日本は50年代60年代と、大きくないということが確認された。そして、日本は先進国内において、アメリカについで人口の大きい大国であるということも確認された。
 次に、日本の経済構造の高度化について見てきた。大きな変化が50年から73年の間に起きたということが確認された。そして、その高度化のメカニズムである「投資が投資を呼ぶ」についても、その中身についても言及した。日本は世界史的にも、稀有な変化を高度経済成長期に経験したということができそうである。
 以上、大きな視点から見てきたが、次の章では、「中進国」日本が如何にして、産業構造の高度化及び経済発展を遂げようとしていったのかについて見ていきたい。

4.1950年代の日本の経済政策
 
講和への歩みが明らかになった昭和25年末になっても、日本経済はなお年々数億ドルにのぼるアメリカの対日援助によって、経済循環を支えられている状況にあった。そのため、日本の経済的な自立が喫緊の課題として取り組まれていくことになったのである。
 独立後、占領下に設定された統制の大枠は外され生産と消費の経済活動は基本的に自由となった。日本政府は、日米協力[25]という基本条件を踏まえて、独立後の日本経済がいかなる途をたどって自立・発展しうるかに大きな関心と期待を寄せ、様々な予測を立てた。そして、それを実現するために、戦時・戦後の技術的立ち遅れを回復するために、産業の合理化・資本の蓄積が進められていくことになった。
 高度成長の時代は、経済政策があらゆる分野で全面的に展開し、これを梃子として資本蓄積が強力に進められた時期であった。まずは、その時期に行われた、いくつかの経済政策について、その概要について見ていきたい[26]
 
①「外為法」[27]
 1949年4月に一米ドル=360円という単一為替相場が決定され、ようやく正常な外国為替取引が設定され、ようやく正常な外国為替取引が復活すべき基礎が打ち立てられた[28]。1949年2月最高司令官覚書として為替管理について強力な指示が提出された。これは、「外国為替と輸出入貿易に関して、総合的に調整された管理制度を確立」すべきことを命じ、また外国為替管理委員会の創設を奨励するものであった。これを受けて、49年3月外国為替管理委員会が成立され、新しい為替管理法案の立案に乗り出すことになり、12月に「外国為替および外国貿易管理法」(=外為法)が制定されることになった[29]
 「外為法」のもとでは、輸出は原則として自由となり、商社が輸出で獲得した外貨は10日以内に外国為替銀行に売り渡さなければならず、さらに外国為替銀行は、これを政府に売り渡さなければいけなかった。外国為替を政府に集中するこの制度によって、限られた外貨をできるかぎり有効に用いるための制度が設計された[30]
 結果、産業保護・育成のための、きわめて強力な政策が採用されることになった[31]。貿易の自由化は、こうした政府の為替管理・制限を撤廃しようとするものであった。

 ②租税特別措置
 この措置の中心は、特別償却制度と輸入税免除制度であった。そして、これは以下の政策として、実現していった。
 ・1951年、「3年間5割り増し」の特別償却制度、重要機械類の輸入関税免除
 ・1952年、「企業合理化促進法[32]
 ・1957年、税制改正により重要物産免除は新産業に限定
 ・1958年、新技術企業化用機械設備の特別償却制度
  特別償却制度は、通常の減価償却よりも高い率で償却を可能とするものであり、いわば「利益の費用化」を促進する制度であった。特別償却額の全償却額に占める比率は1955年から61年が特に高く、この時期、この制度によって恩恵を受けていた産業を3つにグループ化することができる[33]。特に、大きな受けていた産業は鉄鋼、自動車であった。製造業の平均的な恩恵を受けていた産業は、造船、機械、電気であった。平均以下の恩恵しか受けなかった産業は化学であった。
 重要機械類の輸入税免除制度は、国内において製作困難であり、かつ日本経済の自立達成に資する産業用の機械類について関税免除を行うものであった。この制度は、設備近代化に大きな貢献を果たした。
 代表的な租税特別措置の制度を見てきたが、その具体的な効果はどのようなものであったのか[34]。租税特別措置がなかった場合の総所得に対する課税所得の割合を見たときに、65.0%という数字になった。結果、35%もの所得が控除される結果になっていたのである。以上、このように租税特別措置は、各企業における内部留保の充実、資本蓄積の促進に大きな役割を果たしたということができるであろう。


 ③財政投融資
 財政投融資が整備されたのは、1953年であった。財政投融資の資金源は国民の郵便貯金、厚生年金、国民年金など資金運用部資金、簡易保険資金などであり、これらの資金が国家目標に沿って、日本開発銀行、中小企業金庫などの政府系金融機関などを通じて諸産業・諸分野に投入されることになった[35][36]
 財政投融資資金の開発銀行融資[37]について見ると、1950年前半は電力、海運、石炭、鉄鋼に集中していたのに対し、50年代後半には、これらの旧来の重化学工業への集中度を大きく低下させ、その代わりに石油化学、電子工業、特殊機械などの新産業への融資を増大させた。こうした政府系金融機関がひとたび融資を決定すると、民間金融機関は事実上無審査で融資を競い合うことになった。政府系金融機関の資金供給は、いわば「呼び水」としての役割を果たしたということができそうである。また、財政投資による融資は、きわめて有利な融資だったこともあり、海運、電力、鉄道に対する財政投融資による重点的な低利融資は、これら産業への事実上の補助金となった[38]

 ④個別産業育成政策
 個別産業育成政策は、主として、資金の援助や税制面における優遇、および競争品の輸入制限、関税保護などの手段によって当該産業の振興を図ろうとするものであった。1950年代前半においては、鉄鋼・電気・海運・石炭・肥料に、50年代後半には、化学・機械・電子などの新鋭重化学工業の中心をなす産業群が対象とされた[39]
 
⑤行政指導
 行政指導は、設備調整、生産調整など産業内調整の手段として主として用いられた[40][41]

 ⑥金融政策
 高度成長期[42]の都市銀行は、預金に対する貸し出しの比率が著しく高い、いわゆるオーバー・ローンの状態にあった。都銀のこの資金不足に対して日本銀行は、日銀券の増発による資金をもって、ほとんど無制限に、しかも、低利で貸し出しに応じ、融資を行った。

 ⑦構造政策
  この政策は、構造の改革を通して、新しい変化に、対応させていこうというものであった。この政策は、1961年の「農業基本法」、63年の「中小企業基本法」に代表されている。この2法とも、農業と中小企業の構造を改革を通して、1960年前後に現れ始めた労働力不足[43]に対処していこうという政策であった。
 「農業基本法は」は農業所得を高めるために、経営規模を大きく生産性の高い「自立農家」を育成し、そのため、零細農家の離農を促進し、その土地を中農層に買い取らせて自立農家を創出する。そして、離農した農民は資本の求める低賃金労働力として都市の商工業に供給する、というものであった。
 「中小企業基本法」も、中小企業構造の高度化、中小企業の近代化を目標とした構造政策であり、労働生産性の上昇を実現することによって、労働力需要を減らし、また、余剰労働力を低賃金労働力として他部門に吸収しようとするものであった。

 ⑧経済計画
 1955年から60年に政府によって、3つの長期経済計画[44]が策定された。これらの計画は、いずれも完全雇用を目標として掲げ、そのための重点政策に設備の近代化、重化学工業化、産業構造の高度化を掲げていた[45]
 これらの「計画」の効果は、日本経済の潜在的力量に対する国民各層の確信を強め、企業経営者の積極的な投資行動を誘発したことにある。「計画」は、そのことによって、いわば心理的に成長を加速する要因となったということができるだろう。
 
以上、50年代60年代の経済政策について、概観した。産業の近代化と、資本の蓄積が、経済政策によって、大きく進められたことが確認されたと思う。では、これらの政策によって、経済発展を遂げつつある日本が、国際社会に如何にして、適応していったのかについて、次章で見ていこう。

5.貿易為替の自由化

①貿易為替の自由化の背景
 日本の高度成長が進むにつれ、しだいに欧米からの貿易為替の自由化要求が高まった。
まず、日本の戦後の1959年までの経済発展を貿易に焦点を当てながら見ていきたい[46]
 輸出額について見た時に、1953年時点においては13億ドルであったのが、56年には25億ドル、59年には59億ドルと増えていった[47]。53年の段階と比べて、4.5倍もの増加が見られた。しかし、59年における他国と比較した場合に、まだ、この段階では、差が大きいのは明らかである。アメリカは日本の約5倍、イギリスは約3倍、西ドイツは約3倍であった。
 次に、日本の貿易構造について見ていきたい。1950年の段階においては、総輸出額に占める重化学品の割合は30.4%、その他は69.6%であった[48]。そして、1959年には、重化学品の割合は39.8%、その他は60.2%であった。確かに、貿易構造における高度化は進んでいるのは認められるのが、ただし、その割合は十分ではないということができそうである。
 以上、見てきたように、確かに、高度成長が進むにつれ、日本の輸出額は増え、また、貿易構造の高度は進んでいったが、この段階での貿易自由化は、なかなか厳しいものがあったのではないかと、推察される[49]
 では、日本がこのような経済状況の中で、どうして、貿易為替の自由化が求められていったのか。その背景について、見ていきたい。
 まず1つ目の背景としては、戦後圧倒的な経済力を有し、その経済力で、西側世界を支えていたアメリカが、自由化要求を始めたということがあった。それは、西欧や日本の経済が発展するにつれて、アメリカの経済的地位は低下し、これまでのように経済援助や海外軍事支出を行うことができなくなったということがあった。そして、その「ドル散布」を貿易黒字でカバーしきれなくなり、1958年頃から慢性的なドル流出に悩まされるようになった。しかも、59年には日本の対米輸出が大幅に増加して、対米貿易収支が戦後初めて輸出超過を記録したということがあった[50]
 2つ目の背景としては、西欧諸国が1958年にEECを結成するとともに、自国通貨とドルの交換性を回復し、為替取引の正常化に踏み出し、対米差別輸入制限を大幅に撤廃するということがあった。このことも日本の貿易・為替自由化を促す一因であった。
 しかし、貿易自由化の動きは、国外からだけではなかった。日本の国内においても、いち早く時代の変化を見定めて、それに素早く適応していこうという考えもあった。『戦後産業史への証言』[51]における今井氏[52]の話によると、1958年10月あたりの話として「・・・国内には割り当てによる弊害問題[53]があるし、外には貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本精神に基づく動きが出来てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろう」と考えていた人もいたそうだ。
 そして、西ドイツが8条国への移行を宣言し、イギリスも宣言し、そしてフランスも間もなく行われるようになるだろう。アメリカ、カナダはすでに8条国になっている。つまり、欧州の国々では、次第に為替管理、輸入宣言を撤廃していく中で、必ずや日本にも、その波が押し寄せてくることは避けられない状況であるとの認識がもたれるようになった。そして、今井氏は当時、通産大臣だった池田勇人にレクチャーをして、賛同を得たらしい。
 このような国内における認識にもとで、原綿・原毛[54]を中心とする輸入自由化促進が発表[55]され、そして、1960年1月には政府は貿易自由化促進閣僚会議を設けることになる。つづいて、3月に通産省が、貿易・為替の自由化の基本方針を決定し、6月に貿易為替自由化計画大綱が発表されることになった。
 以上のように、国外からの圧力があったようであるが、それ以前に、日本の国内において、その国外における変化に対して、敏感に反応して対策を講じようとした人たちがいた。そして、結果として政府の政策となり、60年6月の貿易為替自由化計画大綱という形に至った。

②貿易自由化の「積極派」・「消極派」の意見について
 ここでは、貿易自由化に対する「積極派」「消極派」の考えについて見ていきたい。まだ、十分に調べられていないので、今回は、『戦後産業史への証言』にある佐橋氏・今井氏の「証言」を使って、整理していきたい。ちなみに、この両者は、昭和30年代において、貿易自由化に対して消極または積極の派閥の中心的な存在であった。
まずは、「消極派」に属していた佐橋氏の考えに見ていこう。まずは、貿易自由化の考えについて見ていく。「私の考えは、基本的には貿易自由化は当然進めるべきだ、しかし、ヤミクモに走られてはかなわない。当時、戦後10年で一応経済成長はなし遂げられたけれども、日本のそれぞれの産業、業種の基盤は世界的に見て強い、堅実だという認識は持っていなかった。日本という国は貿易のサヤで生きていく貿易立国です。いってみれば原料を輸入して製品にして輸出してそのサヤで生きていく以外にもう手のない国でしてね。産業が貿易の自由化によって壊滅的な打撃を受けたら、日本はもう立つ瀬がない。だから、貿易自由化に対抗するには、どうしても産業構造体質の改善をやらなければならないし、それがある程度メドのつくまで簡単に貿易の自由化をしてもらっては困る。私は準じに自由化をやっていく。期限をつけて何年後にはどうするというメドをつけて、その間に少し荒療治ではあっても、産業界は体質を強めるための努力をせよ。こういう段取りで貿易の自由化に対抗できるようにしたらどうか、という考え方」[56]だそうだ。
だから、そのため、池田通産大臣が進める自由化の動きに対して反対することになった。それは、軽工業の自由化と、重工業の自由化を一緒の次元で考えている点に問題があるということであった。例えば、自動車業界に関しては「輸入自由化すると、日本の自動車メーカーはつぶれてしまう」という認識を持っていた[57]。そして、「当時、日本経済発展の柱は、かつての繊維から重化学工業へ移ってきているし、その重化学工業がこれから伸びようとしているところを、性急な自由化でもみくちゃにされたのでは、日本経済の伸びはないという使命感」を持っていたそうである。[58]
自由化を推し進めようとした政治家池田氏の路線に関しては「とにかく政治家の考え方には、『なんとかなる方式』があるわけです。追い込めば日本の経済の底力でなんとか対応する。安全、安全とブレーキを踏んでいるよりは、オカイコぐるみから出して、風の中へ放り出したほうが早いと考えておられたようですね」と、厳しく評されている。[59]
 次に、貿易自由化「積極派」の今井氏の考えについて見ていきたい。まず、インタヴュアーの次のような発言があった。「・・・担当されている局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。」そして、今井さんの発言は「それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、なるようにしかならないという見通しが、われわれは先に立ちますからね」とある[60]。これは、上で見た佐橋氏の批判する池田氏の考えに通呈するものがあるように思われる。
 自動車業界に関しても「業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組み立て工場を作るかもしれないと、外資の進出を非常に恐れていました。」とある。そして、その外資恐怖症の原因について次のように言っている。「当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、『そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もう飲まざるを得ない、妥協せざるを得ない』という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ずうっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考えです。」[61]だそうです。
その考えの基盤には、日本の産業に対する次のような考えがあったそうだ。インタヴュアーの発言として「貿易の自由化を一方的に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって。業界の引き締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる。繊維なんかはそんなことしなくてもよかったわけですが、他の産業についてはそういう考えはなかったですか。」とある。それに対して、今井さんは「それはありましたね。・・・その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自体も自身がなかったのでしょうね。それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任ではなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の法はやっぱりミクロの問題として、また自分たちの問題として真剣に考えています。あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような態度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどのように見ていたんだという気もしますね。」[62]とのことです。

 私の主観的な考えとしては、結果が良かったから良かった、つまり、いま自動車業界が世界一になったから、当時の自由化は正しかった、つまり、彼らの「積極派」の考えが良かったという風に見受けられる。ただし、これについて、きちんとした答えを出すには、当時の自動車業界などの重工業が、如何にして、後に、競争力を持つようになったのかということを、きちんと調べる必要がある[63]。つまり、貿易自由化の後の経済政策を含めて、企業・政府が如何にして、対応していったのかについて調べてみたい。

 ③「貿易・為替自由化計画大綱」
 1960年6月に、政府は「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定した[64]。この大綱はまず、「資源に乏しく人口の多いわが国経済が今後長期にわたって発展するためには、世界の経済交流の進展に即応しつつ、海外諸国との自由な交易を一層拡大してゆくことが不可欠の要因であると考えられるので、自由化を極力推進することは、世界経済の発展のための国際的要請たるのみならず、わが国経済自体にとって、きわめて重要な課題となっている」と述べ、自由化に前向きの姿勢を示した。そして、自由化の国内経済へのメリットとしては、「・・・貿易および為替の制限を積極的に緩和し、経済的合理性に即した企業の自主的な創意と工夫を一層重視することは、わが国経済に対して多くの好まし効果を期待することができる。すなわち、自由化により、従来の管理統制に伴う非能率や不合理性は排除され、低廉な海外原材料等の自由な入手が一層容易となり、産業のコストは引き下げられ、企業は国際的水準における合理化努力を要請されるなど、自由化は経済資源の一層効率的な利用を可能ならしめ、経済の体質改善を促進するとともに、広く国民の生活内容の向上に寄与し、もってわが国全体の利益を増進するものである」と言っている。
 もちろん、メリットだけでなく、問題点があるということも指摘されている。「しかしながら、実際に自由化を促進するに当たっては、まず長年にわたり封鎖的な経済の下で形成された産業経済に及ぼす過渡的な影響に十分考慮を払う必要がある。またわが国経済は西欧諸国とは異なり、過剰就業とこれに伴う農林漁業における零細経営および広範な分野における中小企業の存在などの諸分野が包蔵し、また育成過程にある産業や企業の経営、技術上の弱点など多くの問題を有している上に、わが国を取り巻く国際環境についても、欧州共同市場のような長期的に安定した協力経済圏を有していないこと、およびわが国に対してなお差別的な輸入制限措置[65]が取られている例が多いことなどについて注意する必要がある」とある[66]
 そして、この大綱において、輸入自由化のタイムテーブルが明らかにされた。「本計画を推進することにより、昭和35年4月現在において40%であった自由化率を、3年後においてはおおむね80%、石油、石炭を自由化した場合にはおおむね90%に引き上げることを目途とする」とされた。

 以上、貿易自由化に対する日本政府の姿勢について見てきた。積極的な姿勢を示し、そして、そのメリットを強調するも、その問題点も指摘されるなど、当時において、「積極派」「消極派」で、対立していたことが推察される。

 ④自由化のメカニズム、自由化率の推移
 次に、ここでは、貿易為替の自由化とは何かということについて見ていきたい。貿易為替の自由化が実施されるまでは、輸入品は対象品目ごとに必要な外貨を通産省が割り当てる「輸入割り当て制」[67]、輸入申請とともに外貨の割り当てを自動的に受ける「自動割り当て制」[68]、さらに自由な輸入が認められている「自動承認制」[69]に区分されていた。自由化政策とは、具体的には「輸入割り当て制」、「自動割り当て制」から「自動承認制」に転換していこうとするものであった。
 次に、自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[70]。1960年4月において、40%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われたそうで、工業製品については、比較的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは自由化の直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に与えた影響は、それほど大きくはなかった[71]

 ⑤貿易自由化後の、政府及び企業の対応について[72]
 これ以下については、調べられなかったので、次回までに、考えてきたい。

6.貿易の自由化と、それに伴う社会の反応
 炭鉱[73]や、軽工業[74]とかの転換について、社会との関連を意識しながら書いていきたい。

7.資本の自由化
 次回までには、取り組みたい。
①IMF8条国・GATT11条国への移行
 この節では、IMF及びGATTの加盟から、IMF8条国そして、GATT11条国への移行、そして、その影響まで、考えていきたい。また、特に、英国との通商関係・国際関係について、注目してみる必要があるのではないかと考えている。
 ②OECD加盟の意味について

8.高度経済成長期の国家と企業と社会[75][76]
 次回までには、いくつかの文献を読み、考えてみたい。

今回のまとめ
・問題関心について
 グローバリゼーションの中での「国家」の役割
 高度経済成長における「断絶」と「連続」
 高度経済成長における国際社会への適応、貿易立国への大きなステップ

・日本経済の概観
 戦前そして、戦後においても、日本の経済力は、それほど大きくなかった。
 人口が多かった。
 産業構造の高度化が、その間、急速に進んだ。

・日本の経済政策
 資本の蓄積と、設備の近代化を目指して、さまざまな政策がなされた
 ある程度の効果があった
 しかし、59年における輸出を見る限り、まだまだ、工業製品が競争力を持っていたとは言えない。

・貿易為替の自由化
輸出も競争力が十分ではなく、また、貿易構造の高度かも十分ではない段階での自由化
「安心」できる状態で自由化していったとは言えなさそうである
 通産省内の対立など、国内における「積極派」「消極派」
 ただ、自由化を進めるといっても、あまり「問題」にならない部分から自由化を進めていった。重要なところは、自由化を遅らせている。



予定:
9月3日:夏合宿

↓調べられなかった点を、調べる。
↓グラフとか表を、きちんと作成する。
↓この報告で、まとめた内容を元に、本や論文を読み、評価の違いとかを探す
↓その違いは、何に起因しているのかのいついて考えながら、本を読む
↓次回には、資本の自由化について、まとめる。
↓そのため、金融史を勉強する
↓高度経済成長と社会という側面について考える
↓9月中に、以下の参考文献の10冊程度は精読したい。

10月:卒論報告


↓文章化していく。


12月21日:卒論まずは完成させる

文献リスト:

資料:
・社団法人経済団体連合会編『経済団体連合会50年史』経済団体連合会、1991年。
・通商産業省、通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』通商産業調査会1989年-1994年。
・エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言』毎日新聞社、1977年。
・エコノミスト編集部『高度成長期への証言』日本経済評論社、1999年。
・経済同友会『経済同友会50年のあゆみ』経済同友会、1997年。
・山澤逸平他著『貿易と国際収支』東洋経済新報社、1979年。
・毎日新聞社編『一億人の昭和史 高度成長の軌跡』毎日新聞社、1976年。
・毎日新聞社『高度成長』毎日新聞社、1984年。
・朝日新聞社編『朝日新聞に見る日本の歩み 高度成長への信仰』朝日新聞社、1977年。
・大蔵省財政史室編『昭和財政史―昭和27―48年度』全20巻、東洋経済新報社、1990-2000年。
・経済企画庁編『戦後日本経済の軌跡 経済企画庁50年史』大蔵省印刷局、1997年。
・同編『経済白書 昭和39年度版』大蔵省印刷局、1964年。
・マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年。
・『毎日新聞』
・通商産業省『通商白書 総論1964年』通商産業調査会、1964年。
・通商産業省『通商白書 総論1960年』通商産業調査会、1960年。
・土門拳『ドキュメント日本 1935年―1967』小学館、1995年。
・通商産業省編『商工政策史 10巻』商工政策史刊行会、1961年-85年[77]


辞書・辞典:
舘龍一郎編集代表『金融辞典』東洋経済新報社、1994年。


本・論文[78]
○浅井良夫『戦後改革と民主主義』吉川弘文館、2001年。
■同「資本自由化と国際化への対応」中村政則編『日本の近代と資本主義』東京大学出版会、2002年。
□雨宮昭一『戦時戦後体制論』岩波書店、1997年。
■同「1950年代の社会」歴史学研究会編『日本 同時代史3』青木書店、1990年。
□アンドルー・ゴードン著、森谷文昭訳『日本の200年上・下』みすず書房、2006年。
□同編『歴史としての戦後日本上・下』みすず書房、2001年。
■五百旗頭真編『戦後日本外外交史』有斐閣、2006年。
■伊藤正直「高度成長の構造」渡辺治他編『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、2004年。□伊藤元重『産業政策の経済分析』東京大学出版会、1988年。□猪木武徳『経済思想』岩波書店、1987年。○猪木武徳・安場保吉編『日本経済史8 高度成長』岩波書店、1989年。○内田公三『経団連と日本経済の50年』日本経済新聞社、1996年。□大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年。□同『高度成長期の政治学』東京大学出版会、1999年。□岡崎哲二、奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年。
□岡崎哲二『コア・テキスト経済史』新世社、2005年。
□香西泰『高度成長の時代』日本評論社、1981年。
■同「高度成長への出発」中村隆英編『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』岩波書店、1989年。
■金子勝「『高度成長』と国民生活」『講座日本歴史12 現代2』東京大学出版会、1985年。
□上川孝夫、矢後和彦『国際金融史』有斐閣、2007年。
■神野直彦『地域再生の経済学』中央公論新社、2002年。
■菊池信輝『財界とは何か』平凡社、2005年。
□清川雪彦『日本の経済発展と技術普及』東洋経済新報社、1995年。
□高度成長期を考える会編『高度成長と日本人』日本エディタースクール出版部、1985年。
□小浜祐久『戦後日本の産業発展』日本評論社、2001年。□小宮隆太郎他編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年。
□柴垣和夫「産業構造の変化」東京大学社会学研究所編『戦後改革 8』東京大学出版会、1978年。■城山三郎『官僚たちの夏』新潮社、1980年。
□菅孝行『高度成長の社会史』農村漁村文化協会、1987年。
■鈴木恒夫「戦後日本経済システムと『過当競争』」中村政則編『近現代日本の新視点』吉川弘文館、2000年。
○鈴木良隆『ビジネスの歴史』有斐閣、2004年。
□同『MBAのための日本経営史』有斐閣、2007年。
□スーザン・ストレンジ著、櫻井公人訳『国家の退場』岩波書店、1998年。
□田代洋一他編『現代の経済政策』有斐閣、2006年。□ダニエル・I・沖本著、渡辺訳『通産省とハイテク産業』サイマル出版会、1991年。
□チャーマーズ・ジョンソン著、矢野俊比古監訳『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニ カ、1982年。
□鶴田俊正『戦後日本の産業政策』日本経済新聞社、1982年。□寺西重朗『日本の経済システム』2003年、岩波書店。
○中岡哲郎『日本近代技術の形成』朝日出版社、2006年。
■同「技術革新」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
■豊下樽彦『集団的自衛権とは何か』岩波書店、2007年。
□中村章『工場に生きる人々』学陽書房、1982年。■中村政則『戦後史』岩波書店、2005年。
■同「1950年-1960年代の日本」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。■中村隆英・宮崎正康「1950年代の産業政策」中村・宮崎編『岸信介政権と高度成長』2003  年、東洋経済新報社。
■中村隆英「日本における産業政策の特色と評価」『週刊東洋経済』1974年6月18日臨時 増刊。
□同『日本経済』東京大学出版会、1978年。○橋本寿郎『戦後日本経済の成長構造』有斐閣、2001年。○橋本寿郎他著『現代日本経済』有斐閣、1998年。■原朗「戦後50年と日本経済」『年報日本現代史』第1号、1995年。□原朗編『復興期の日本経済』東京大学出版会、2002年。□福川伸次『活力ある産業モデルへの挑戦』日経BP出版センター、2004年。
□講座現代資本主義国家編集委員会編『講座現代資本主義国家 現代資本主義の政治と国家』大月書店、1980年。
□堀内圭子『〈快楽消費〉する社会』中央公論新社、2004年。
○マーク・フューステル編『日本の「自画像」』岩波書店、2004年。
□松田廷一『高度成長下の国民生活』中部日本教育文化会、1985年。
□南亮進『日本の経済発展 第3版』東洋経済新報社、2002年。■宮崎勇『証言戦後日本経済』岩波書店、2005年。
□宮崎義一『国民経済の黄昏』朝日新聞社、1995年。
□宮島英昭『産業政策と企業統治の経済史』有斐閣、2004年。
□三輪芳朗『政府の能力』有斐閣、1998年。
□柳川隆、川濱昇編『競争の戦略と政策』有斐閣、2006年。
□村上泰亮『新中間大衆の時代』中央公論社、1984年。■森武麿他著『現代日本経済史』有斐閣、1994年。
■同「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争第1巻』岩波書店、2005年。
□渡辺治編『高度成長と企業社会』吉川弘文館、2004年。
■同「戦後保守支配の構造」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
□山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年。
□山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一『総力戦と現代化』柏書房、1995年。
■吉川洋『高度成長』読売新聞社、1997年。
■米倉誠一郎『経営革命の構造』岩波書店、1999年。

[1] 中岡哲郎『日本近代技術の形成』p.412。
[2] 日本の経済発展と、海外との交流との関係について、明治から今日までの歴史的な大きな流れを踏まえたうえで、高度経済成長期前半期の位置づけということについても、考えていきたい。
[3] 原朗「戦後50年と日本経済」p.99
[4] 「弥生時代」の「変化」が、どのようなものであったのかについては、勉強していない。そのため、少しイメージが掴みにくい。
[5] 白黒テレビや冷蔵庫、掃除機などの家電製品が急速に普及して言ったのがこの時期であった。『現代日本経済史』p.122より。出典は『高度成長と日本人』PART1、p.67。
[6] 「三角合併、きょう解禁『黒船』に揺れる企業」『毎日新聞』2007年5月1日の朝刊「三角合併が解禁されたからといって、5月以降に外資による日本企業 買収が激増するかというと、その可能性は小さい。買収に詳しい壇柔正弁護士は『三角合併はあくまで当事者が合併に合意したうえで使う手法。嫌がる相手を無理やり買収する敵対的買収とは違う話だ』と指摘する。とはいえ、外資が穏やかに新制度を活用するという見方は経済界では少数派だけに、警戒を崩さない。安 倍政権は対日直接投資倍増を公約しているため、民間企業には『政府は国内企業を本気で助けてくれないのでは』(メーカー幹部)との不信感も渦巻く。各社とも外資勢の動向に神経をとがらせている」
[7] 今回は、貿易の自由化という側面しか調べていない。資本の自由化については、また、次回までに調べてみたい。というのは、この「国際化」の過程において、貿易の自由化よりも資本の自由化の方が、より危機感を持って、取り組まれていたという印象を、様々な文献を眺めていると感じたからである。
 エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言』p.145-146(佐橋滋)「資本自由化は、貿易自由化と違って目に見えない。と同時に、見えない金が入ってくる。そうして企業が支配されると、どんなに稼いでも、あがりは向こうにもっていかれてしまう。・・・とにかく日本のように資本力の小さい、間接資本でまかなっているような弱体な企業の中に、外国の有力な企業が入ってくるのを野放図に認めたら、手を打とうにも私たちの手には負えなくなってしまう。通産省がモノの行政、産業政策を通じて国力とか、経済力をとかいっているのが、何の役にも立たなくなる。貿易自由化の場合にはコスト的にさえ引き合えば、十分に太刀打ちできたんですが、資本自由化はそうではない」(インタヴュアー)「コスト的に安くもうけが多い企業だと、かえって乗っ取りのための資金がはいってくるわけですね。」(佐橋)「きわめて少額な資本で日本の産業を牛耳るのは可能なんです。」ここで明らかなように、通産省官僚は貿易自由化よりも資本の自由化に警戒している。貿易が自由化の方針が採られたから、逆に資本の自由化に対して規制をかけようとしたのかもしれない。
 同p.121-122(林)「・・・資本自由化についての近経学者の主張は偏っていると思う。アメリカは資本が強い。それだけを自由化しろというんでしょう。日本はレーバーが強い。労働は移民制限法で入らないでしょう。こんな一方的なことがあるかと。・・・『アメリカで余っている資本が日本へ来て、相対的に余っている労働と結合して、新しい活動をやる。それでアウトプットができる賃金、雇用が確保される、利潤ができる、こんないいことをなんで日本は反対するんだ』と、こうおっしゃる。・・・資本自由化についての私はあのときは本当は、日本人として日本の立場を大局的かつ公正な見地から主張してもらいたかった。アメリカが一方的なことをいっているのに、なぜアメリカにアピールしないのだろうか。そういう主張をアメリカにしないで、日本のなかで日本企業は強くなるのを反対するなんて、理解できなかった。」資本自由化に対する、近代経済学者の意見と、その反対意見について、調べる必要がありそうだ。ただ、この場合、日米外交という幅広い観点から、この問題を見てみる必要があるのかもしれない。
[8] マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年、付録Dを参照。
[9] 一人当たりのGDPを見るのと、実質GDPを見るのでは、どう意味合いが違うのかについて、勉強していない。
[10] 日本の人口は、先進国内においては、非常に多かった。このあたりが、日本の労働集約型産業が競争を持つという風に考えられる理由だったのかもしれない。これについては、「工業生産性と労賃コストの年平均増加率」とかを調べてみる。これについては、西成田「成長と『自立』」p.151。
[11] マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年、付録Aを参照。
[12] 同上、付録Cを参照。
[13] 同上、p.110-111。
[14] 同上、付録Kを参照。
[15] 西成田「成長と『自立』」『現代日本経済史』p.126
[16] 同上、p.127-129。を以下においては、要約する。
[17] 最初に輸出産業化に成功したのは、造船業であった。
[18] 柴垣和夫「産業構造の変革」を参考にしたようなので、後から読む。
[19] 以下については、伊藤正直「高度成長の構造」を参考に書く。
[20] 高度成長は、産業関連施設整備を軸とする激烈な開発政策の展開(旧全総、新産都市、太平洋ベルト地帯、新全総、列島改造論)をともなうものであった。産業道路・産業港湾の建設、工業用水整備、臨海埋め立て工業用地の造成等が公共投資をベースに推進され、それが巨大企業の新たな技術水準と生産能力の実現=新工場建設に一体化された。
[21] この連関は、メジャーズの原油支配(原油の低価格かつ安定的供給)を起動力とするエネルギー基盤の前面転換、原料基盤の転換(化学・繊維)のインパクトを直接的に受けることによって戦後新たに形成され、高度成長期の革新投資の一方の牽引力となった。
[22] この系列は、高度成長期重化学工業化の基本線を形作った。この系列は、同一部門内需用の比率が著しく高いばかりではなく、最終需要における民間固定資本形成・輸出の牽引力となった。
[23] たとえば、機械の増産が鉄鋼の需要を作り出し、鉄鋼の増産が新しい製品市場を作り出したり、また、低価格の石油供給が火力発電所ブームを作り出し、それが送電線需要や電気機械市場を拡大させるといった相乗作用
[24] この時期の国産技術が量産効果および付加価値の小さい、いわば部分改良的もしくは小規模の技術が大半を占めていたのに対して、導入技術は技術革新を中心としたスケールの大きい技術であり、それぞれの産業部門のパターンをまったく一新させるものが多かった。
・鉄鋼業:ホット・ストリップ・ミル、純酸素上吹転炉
・自動車工業:完成車の組み立て技術、大量生産技術、デザイン技術
・重電気:東芝=GE、三菱電気=ウェスチングハウス、富士電機=ジーメンスの三社の包括契約
・電子工業部門:電子通信機器、テレビ、トランジスタ、電子計算機
・石油化学:ポリエステル系繊維、ポリプロピレン
[25] 『通商産業政策史17巻』p.313とかを後から、『戦後日本外交史』とかも参照しながら、詳しく書いてみる。あと、戦後のアメリカとの貿易関係の金額ベースとかの表についても可能なら作ってみる。
[26]西成田「成長と『自立』」『現代日本経済史』p.143-150。を参考に、以下記述する。
[27] 「外国為替管理制度及び貿易管理制度の推移」『通商産業政策史 6』第4章第3節。
[28] 浅井「現代資本主義と高度成長」p.209によると、産業の競争力が弱かった1940年代末から50年代には、にほんは輸出により、国際収支を均衡させることは困難であり、アメリカの経済援助や軍事支出を(海外軍事調達)の補完を必要とした。日本は、エロア援助供与の条件としてアメリカが指示した「経済安定9原則」に基づいてドッジ・ラインが実施され、金ドル本位制に組み入れられた。「経済安定9原則」は、為替管理の強化を求めており、アメリカが、ドル固定レートの維持と引き換えに、日本に対して保護主義を容認したものと見ることができる、らしい。
[29] 『通商産業政策史 6』p.77。「限られた外貨を有効に活用して国民経済の健全な発展を図ることが当面の課題となった」
[30] 外貨予算制度、外貨割り当て制度
[31] 革新的技術導入に対して優先的に外貨を割り当て、他方、育成すべき新鋭重化学工業については、輸入への外貨割り当ての抑制を通して、それらの製品の輸入を事実上厳しく制限したりした。
[32] 近代化設備についての「初年度2分の1」の特別償却。この法案は、技術の向上及び重要産業の機械設備等の急速な近代化を促進すること並びに原材料及び動力の原単位の改善を指導勧奨することなどによって、企業の合理化を促進し、もってわが国経済の自立達成に資することを目的とするものであった。促進手段として、減税がとられた。また、この法案は大蔵省との共同で実施された。

[34] 『産業政策史 6』p.370の図から。次回までには、そこにある図を作成する。
[35] 朝鮮戦争特需は、合理化への前進を押さえ込むものであった。企業は、合理化を進めなくても、需要は存在し、しかも、世界的な物価沸騰の中で国際的圧力も減退した。生産拡大の投資は前進をみたが、それは必ずしも合理化投資と言われるものではなかった。設備投資が活発に行われたのは繊維、紙パルプ、あるいは化学工業等、主として国民の購買力の増大に答えようとするもので、基礎産業の立ち遅れが目立った。その最大の原因は資金の不足にあった。この財政投融資は、その資金不足を補うものであったと見ることができるであろう。
[36] 54-65年の財政投資・財政投融資を見ると、農林・漁業、エネルギー、商工業、輸送用施設・手段、通信など直接間接に産業活動に関連している分野に国家資金の75%が一貫して投入されており、住宅などの福祉・厚生。環境整備など広い意味での生活関連領域への国家資金の投入は比較的手薄であったらしいが、これについては、次回までに調べる。
[37] 『産業政策史 6』p.382-383。「開銀融資は、機振法、電子工業進行臨時措置法等の重要産業育成、その他の産業助成、地方開発、公共投資に関連する各種の特殊立法の政策目標実現のための重要な手段として位置づけられ、それゆえ各種審議会答申、政府の合理化基本計画、育成計画の動向に規定されつつ、その対象を多様化していった。」
[38] 伊藤正直「高度成長の構造」。
[39] 55年「合成趣旨工業の育成について」(通産省省議)
    「石油化学工業の育成」(通産省省議)
 56年「機械工業振興臨時措置法」
 57年「電子工業振興臨時措置法」
 58年「航空機工業振興法」
 59年「日本合成ゴム株式会社に関する臨時措置法」
[40] 行政指導の例としては、勧告操短(繊維など)、公開販売制(鉄鋼)、協調懇談会(石油化学、合成繊維)、産業合理化審議会(のち産業構造審議会)産業資金部会での設備投資調整などをあげることができる。
[41] 『戦後産業史への証言』p.119において、自由化対策のための行政指導の話が出ている。(林)「一般的には再編成をやりなさい、その前にまず業務提携をやりなさいといっていた。業務提携には、マーケットの提携もあれば開発研究の共同化のような提携もある。あるいは輪番投資のような提携、いろんな形の提携がある。提携がさらに進むと合併という形でずいぶん一般的に指導しました。」自由化の時期における、企業合併について見た時に、通産省と公正取引委員会との独占禁止法の問題で、よく対立が起きているという印象を持つ。そして、その時に、近代経済学者(小宮隆太郎先生とか)は合併反対の論陣を張るそうだ。そのあたりについても、次回までには、調べておきたい。
[42] 伊藤正直「高度成長の構造」によると、高度成長期の金融構造は次のように説明されている。「高度成長期の金融構造はオーバー・ローン、オーバー・ボロウイング、資金偏在、間接金融の優位という特徴をもち、日本銀行―都市銀行―大企業という系列融資体制を中核としていた。そしてこの構造は、金利規制政策とそれを前提とした日銀信用の量的調節=『窓口指導』によって支えられていた。」
 ・オーバー・ローン=金融機関が与信超過の状態にあること
 ・オーバー・ボロイング=企業の資金調達において外部資金依存度が高いこと
 ・資金偏在=都市銀行とそれ以外の金融機関の資金のポジションが正反対であること
 ・間接金融の優位=株式・社債ではなく金融機関借入金に大きく依存して企業の資金調達がなされること
[43] この実態については、調べていないので、次回までには、調べたい。
[44] 55年「経済自立5カ年計画」
 57年「新長期計画」
 60年「国民所得倍増計画」
[45] これらの計画の「目的」は読んでおかなければいけない。
[46] GDPの成長や、日本の経済構造の高度化の軌跡については、2章で確認した。ここでは、貿易構造の高度化について見ていきたい。
[47] 『通商白書 昭和35年』p.150。
[48] 重化学品の中には、機械類・金属品・化学品が含まれる
 その他には、食料品・繊維品・非金属鉱物製品・その他が含まれる。
[49] 『通商白書 昭和35年』p.74では、日本の輸出市場構成の推移がある。ここでは、日本の工業国への輸出が一貫して戦後において、増加しているのが確認されるが、その中身については、不明である。その中身について、次回までに調べる。
[50] これについては、自分で確認してみる必要がある。
[51] 『戦後産業史への証言』p.170-171。以下は、この本を参照。
[52] 今井氏は、昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。当時、いわゆる「民族派」の多かった通産省の中で、少数派であった「国際派」に属していた。城山『官僚たちの夏』の玉木は、今井氏のことであろう。
[53] この弊害問題については、調べてみる必要がある。
[54] 『戦後産業史への証言』p.172-173を参照。(今井)「・・・34年の夏ぐらいには、だいたい自由化の方向が出ていたんですけれども、すぐ明日実行というわけにはいかない。・・・」(今井)「池田さんは自由化の方向で腹を決めていたのですが、政務次官の原田憲さんが繊維業者がたくさんいる大阪(3区)で、原田さんのところに逐一情勢が入ってくる。原田氏から『このまま自由化やったらおれもたまらないし、池田は総理をねらっているんだけど、これもマイナスになる。いずれにせよたいへんなことになる。その前に、ひとつうまくやろうじゃないか』との申し入れがあった。はじめ私どもは、35年のできれば秋ぐらいに原綿の自由化をやりたいと思っていたんですが、原田氏などの意向で、それでは通産大臣があまりにも強引なことをやりすぎると受け取られるので、自由化時期を延ばせといい、私に指示があって、ほとんど発表した実施時期を延ばすよう訂正させられた。大臣のお声がかりという名目でした。」
[55] 『通商産業政策史 6』p.13によると、1959年のガットの東京総会において、日本の貿易自由化の方針が公表されるにいたったとある。
[56] 『戦後産業史への証言』p.135。
[57] 同、p.141。
[58] 同、p.141。
[59] 同、p.145。
[60] 同、p.176。
[61] 『戦後産業史への証言』p.175。
[62] 同、p.177。
[63] この節については、次回までに、小宮先生などの踏まえながら、もっと深く考えてみる。
[64] 『通商産業政策史 17』p.376-378。
[65] 『差通商産業政策史 6』p.13によると、イギリスの例が書かれている。「戦後イギリスは、日本に対し厳しい差別的輸入制限を実施しており、また、30年の日本のガット加入に際して、ガット大35条の援用により最恵国待遇の供与を拒否した」とある。
[66] 『通商白書 昭和39年』p.116においても、問題点が指摘されている。日本の所得水準は低く、国富の乏しいこと、農業・中小企業の生産性が低いこと、大企業についても国際的には生産・経営規模が劣るものが多いこと、社会的間接資本が不足していること、消費者物価の上昇傾向が強いことなどなど。
[67] IQ制
[68] AIQ制
[69] AA制、自由化品目
[70] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[71] 次回までに、このあたりについては、細かく見たい。
[72] 59年においても、輸出が小さかった日本が如何にして、貿易大国になっていったのか。その過程について、企業や政府の取り組みについて見ていく。
[73] 筑豊炭田などについて、考えてみる。
[74] カネボウとかの変遷について、学ぶ。
[75] 西成田「成長と『自立』」『現代日本経済史』p.148-150より。
 高度経済成長期の国家の特徴づけの議論として以下のようなものがあった。「藤田勇は現代国家の『介入主義的性格』を示すものとして、『企業国家』、『現代国家』、『福祉国家』の3種類があるとし、『企業国家』の条件として、次の3点を指摘している。
 ①いわゆる財政投融資政策の展開によって、国家装置が巨大な貨幣の集中と、その生産資本への転化の媒介者、組織者たる機能を遂行していること。
 ②国家装置自身が巨大な富の所有者、高度に集中化された経営主体、大機能資本家として現れる国家独占の形成。
 ③国家装置による生産、流通、信用、土地・資源利用、貿易・資本輸出等の諸分野の規制、つまり国民経済の「組織化」もしくは「計画化」の展開。」
 このあたりの議論について、次回までに考えを深めておきたい。
 また、高度経済成長期の政治過程についても書かれていたので、以下要約する。高度経済成長期の「企業国家」の権力構造は、政・官・財複合体であった。1955年の保守合同以後、政策決定機構上に生じた主要な傾向は、
 ①政策決定機構における国会の機能低下
 ②官僚と与党との癒着の深化と公然化
 ③政府の施策に対する財界の発言権の強化、与党との結合の制度化
 また、財界の代表である経団連が政府・官僚に意思表示し貫徹する方法としては
 ①政府または当該政策にかかわる官庁に対して、経団連として公式の意見書を提出する方法。
 ②政府の審議会、調査会、懇談会などへの委員の送り込み。産業経済全体にわたる問題についての審議会には、関係省庁が経団連からの委員の推薦を求めるのが通例となっている。
 ③各省庁の担当部局と経団連の事務局との日常的接触を通ずる政策調整である。新しい政策や法案を立案しようとする省庁の部局は、担当官と経団連事務局との間で、事前に財界の意向を問い合わせ、これを参酌して政策原案を作成する
 
今回は、経団連の国際化への反応について見ることができなかったので、次回は見たい。また、同時に、政治過程の構造的な面についても深めていきたい。
[76] 伊藤正直「高度成長の構造」p.245。参照
[77] p.121を使って、重工業化率を国際比較する
[78] ■:読んだ。 □:読んでいない。 ○:参考にした。


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追伸:
今日から5日まで、東京を離れます。