2007/12/31

よいお年を!!!

2007年12月31日

レポート3つとも、完成せず。最初の一つ目も、進まず、泣きそうですが、そこは気合ですね。

さてさて、今年1年間、いろいろ、お世話になりました。このブログを読んで下さっている方々には、今年、相当ご迷惑を掛けました。

今年1年間、本当に、ありがとうございました。

来年は、いろいろ、夢はありますが、とにかく、公務員試験に上位合格して、内定を獲得することを最優先にして、努力していきたいと思います。来年も、よろしくお願いします。

さてさて、あと少ししてから、和歌山に帰ります。。。

【心に残る言葉】
「究めようとしないからつまんないんだよ」

「こうして75歳の僕が20歳の君に教えれば君が75歳になった時、君は僕よりもっと素敵な75歳になるよね」

「どうぞ、自分を安売りしないでください」

「おごってもらったら2回お礼を言え。おごってもらった時と次にその人に会った時」

「しぶとく生き抜け。たまには息抜け」

「人間、ある時には見切りが肝心」

「Do the hard right not easy wrong
困難で正しい道を選べ」

「準備は120、発表は80」

「変化は機会」

「デリカシーを!」

「夢を追いかけることは、自分の足元を見つめることから始まる」

【自治体生き残りのための10ヵ条】
① 情報公開を徹底させること
② 国際化、高齢化を素直に受け入れること
③ 地域の素材で勝負すること
④ 国頼み、都道府県頼みから脱却すること
⑤ 官も民も、総力戦で地域の生き残りを模索すること
⑥ 安全、安心の地域社会を構築すること
⑦ 中央と地方のつながりを深めること
⑧ 公共事業頼りから環境保全、国土保全に力を注ぐこと
⑨ 住民自治の仕組みを充実させること
⑩ 共助の地域社会を構築すること

2007/12/30

いつまでも、見ているだけなのは、ツライ。。。

正月も、近づき、そんな中で、一人東京に居るのは、何となくではあるが、社会に疎外されたような、ウツウツを抱えてしまいます。

今日は、朝、久しぶりに、(というよりも、何年ぶりかな)ある友人から、メールが届き、何となく、驚きました。皆、いろんな道に進んでいるということを確認すると共に、僕も、頑張らなければいけないという気持ちを新たにしました。

さてさて、

【心に残る言葉】
「次の人が仕事しやすい環境を作るように心がけて自分の仕事をする」

「うどんを食べる時は、うどんのことだけ考えていればいい!」

「他人様から褒められたことは自分の長所だから、もっと褒められるように頑張ればいいんだよ」

「誰にでもできることをやるのが大切」

「『やればできる』というのは、『やらないからできない』の言い訳なんですよ」

「ありのままが最強!もっと素直に、もっと強く!!」

「これから、いろんなことがあるだろうけど、寂しがるなよ」

「仕事のストレスは仕事でしか返せない」

「上司のために部下がいるんじゃない。部下のために上司がいるんだ。だからちゃんと俺を使え」

【鈴木他著『MBAのための経営史』第1章】
まとめ

 本章は、日本の企業を解明する方法を考察し、以下の点が明らかとなった。

 第一に、アメリカの大規模製造企業が、必ずしも普遍性を持った大規模組織のモデルではなかった。それは、アメリカのように通常の財(モノ)の取引において組織が市場に代替することだけが企業の出現ではないからである。労働力(ヒト)や資本(カネ)といった資源配分においても、組織が市場に代替することはありえる。
 
第二に、大企業がそれ自体、どこでも、いつでも、優位であるとはかぎらず、中小企業や金融・サービスも優位性をもちえた。大規模な企業がその内部において規模や範囲の経済性による優位を築くように、中小企業や金融・サービスも、集積を形成し、外部性を組織化してより柔軟に経済性を達成することができた。
 
 第三に、どのビジネスが優勢に向かうかは、それ自身の優位性だけでは決まらなかった。そのビジネスが置かれた政治経済的な環境が重要な役割を演じた。

【勉強】
予定通りに、進まず。やばい。このまま、和歌山に帰ると、相当、やばくなるので、まずは、全てを横において、レポートを取り組もうと思う。
 

2007/12/28

やばい、時間が。。。

【大学でドラマの撮影】
学割をゲットするために、学校に行くと、何かの撮影が行われている。

教務課筋からの情報によると、TBSの伊東美咲さん主演の「エジソンの母」というドラマの撮影だそうです。2008年1月11日放送らしいです。

3日前くらいには、伊東さんも、来られたそうで、三日前なら、僕も、学校の周辺をふらふらしていたような・・・。残念。。。

ドラマの撮影なので、スゴク多くのスタッフの方々がいて、また、野次馬がいて、騒々しい雰囲気でしたね。

でも、凛とした寒さの中、大学の景色は、最高にきれいですね。兼松前から、図書館に向けての場所で撮影していたのですが、そこはホント、最高にキレイなスポットです。(兼松講堂の美しさはスゴイです。僕は、その美しさに、毎回、背中をシャンとさせられます。)

まぁ、大学LOVEな気持ちと、伊東美咲さんLOVEな気持ちを持つなら、ドラマ「エジソンの母」を見ては如何でしょうか。僕は、一身上の都合で、見ませんが・・・。

【心に残る言葉】
「上司の悪口は言ってもいいが、同僚の悪口は言うな」

「遠距離恋愛は、信じないまでも疑わないこと」

「お前がやった失敗で、オレがやってないものはないんだよ」

「本番で泣くな、練習で泣け」

「ゆっくり休んで、しっかり治してください」

「憧れはすべてのことの原動力です」

「今日やったことは明日もやる。今日やらなかったことは明日もやらない」

「ため息は、ついていいんだよ。悪い空気は吐かないと、いい空気が入ってこないでしょ」

「どうしたらいいか分からんって時は、本当はどうするのがいいか分かっているけど、まだそうしたくないんだけやから、分からん分からんって考えるな。そうする時が、そのうち勝手に来る。」

【関満博『地域産業の未来』再読】
昨日、掲載したレポートを書くために、ネタ探しの一貫で、この本を再読した。しかし、どうも、自分が何を書くのかが明確にならないので、どうも、昼間からウツウツしている。何でもいいから書くということになれば、関先生の意見に、歴史問題の重要性を付け加えた形の、何とも平凡でダメなレポートになりそうである。

さてさて、どうしよう?

【帰省】
12月31日の夜行で、和歌山に帰ります。

それまでに、勉強を進めないと、ホント、やばい。

寝不足厳禁。

年賀状を、ランチ後に、やっと、書き終えることが出来ました。今年は、昨年の反省(全て手書き)を踏まえ、いろいろ考えながら、取り組みました。簡単に言うと、昨年と比べると手抜きですね。よく言えば、要領よく。まぁ、時間の制約が強くあるので、どうしようもありません。

送り手も、少し絞ったことも、昨年と比べると、楽になった点でしょうか。2年前は、大臣に年賀状を書いていたので、そういうのは、結構、ストレスですよね。書く内容に慎重になってしまうからです。

でも、その点に関しては、今年も同じです。というのは、送り手一人ひとりと、今年1年で、いろんなことがあったので、それに合わせて、気の利いた文章を書こうとすると、案外と難しくて考え込んでしまって、楽しくはあるのですが、苦しくもあります。

まぁ、これが年賀状です。


【心に残る言葉】
「他人に言われて、グサリ!ときたらそこは自分の弱いところ。カチン!ときたら自分の固いところ」

「ヒマはできるんじゃない。作るんだ。」

「どんな作家でも、みんな好きにならなくてはいけないよ」

「仕事なら、時間をずらしてもらうことができるけど、遊びの時は、君が来るまでみんな待っていなければならない。プライベートの時こそ遅刻するな。」

・・・このペースで続けると、少し時間が掛かるので、今回から倍を書くことにします。

「幸せは現地調達」

「手は抜いてもええから、気は抜いたらあかん」

「メールより電話、電話より会いに行け」

「自分ほど自分を裏切る奴はいない」

【レポートの構想】
明日、東アジア国際関係史のレポートを、1日限定で書こうと思っているので、その素案を、少し書く。

「テーマ:21世紀における新しい東アジア国際秩序を展望しなさい。その上で、秩序形成の基軸となる理念、思想、価値について論じつつ、新たに地域構想を具体化、実現するにはどのような実践的努力が必要かについても論じなさい。」

素朴な疑問として、「秩序」とは何かから議論しなければ行けないのか?

僕は、最近、経済を中心に勉強しているので、経済的な相互依存関係の深化のあたりを、どういう形でかで、描きたいと考えています。その時に、中心とするのは、外的(円高、途上国の追い上げとか)内的(経済大国とか)日本の経済・社会システムの変化ということを中心にしつつ、それを、どのように受け止め対応していくのかについて、これからの国際化のあり方について議論できればと、少し思います。

事例としては、企業の海外展開における外国人労働者の位置づけの変化とかを見ていくことになるのか。

これ以上は、あんまり考えていないけど、繰り返しになりますが、結論としては、日本の経済・社会システムが変化しなければ行けないという所にもっていきたいと思います。

(昨日、経済産業省の説明会聞いた話に、すごく、啓発された面のある議論になるかもしれませんが・・・)

【『フォトジャーナリスト13人の眼』】
久しぶりに、パレスチナとかの、市民の安全保障とかが脅かされているという内容の本を読んだ。久しぶりだったので、こういう視点を忘れていた。「あっそうだ、こんな世界もあったんだ」という、感じですね。

今日、半分、オフ気味だったので、図書館から、予約して借りていた、この本を読みました。

アメリカの悪行、国内間での争い、国際社会の無関心への告発が多かった。

特に、アメリカの悪行については考えさせられた。というのは、日本も、1945年から1952年の間は、実質的にアメリカに占領されていたということを、少し思い出し、今、イラクとかアフガニスタンとかで悪行を重ねるアメリカが日本で、悪行をしていないわけがないということを、考えるに至りました。

もしかしたら、アメリカは、日本のことが、大好きだったので、日本に対してはやさしかったのかもしれません。

まぁ、こういう見方というのは、なかなか支持されないですよね。

戦後の日本は、アメリカによって、作られ、そして、今も、アメリカの「支配」の下にあり、「冷戦」後は、アメリカの搾取の元に置かれているという、「陰謀論」の気持ちは分かるのですが、これも、なかなか、今の僕には、支持できません。

ただ、今現在の、アメリカの政策を見ながら、過去を見たときに、違った視点を与えてくれることは間違いないですよね。

対日占領政策への評価の仕方とか。

ある歴史家は、歴史を書くということは、過去により現在の説明である、と言っていました。もしも、過去の歴史がアメリカ様々だとしたら、現在のアメリカの政策を批判する視点は出てこないのかもしれません。ニワトリの卵とかの話ですが、現在のアメリカの政策に批判的な感情なり思いを持たない人は、過去のアメリカの政策を批判的に捉えなおすことが出来ないのかもしれません。

歴史も現在も勉強する必要があるという話しでした。

【映画「ワンダとダイヤと優しい奴ら」「デーヴ」】
それなりに面白い映画だとは思います。ただ、優先順位は低いですけどね。

「デーヴ」は英語だったので、楽しめなかった(明らかに勉強不足・・・汗)。

「ワンダ・・・」は、アメリカ人のイギリス観とかの部分は面白かったが、コメディーですね。

と言うわけで、気晴らしで、かつ、あまりエネルギーの要るコメディーを希望しない場合は、見てもいいのではないかと、少し思います。

2007/12/26

「ガツン」

「ガツン」と今日も、やられました。
やばい。やばい。勉強は進まず、かつ、会話力・プレゼン力も低い。ガツンです。
「反発」のエネルギーで「ガツン」と、やってやりましょう。

まずは、年賀状書きからですね。

【心に残る言葉】
「あなたはあなたを楽しませようとしているものによって楽しまされてはいけない」

「人間は一人では生きられない。あなたは生きているんだから、一人ではない。安心しなさい。」

「良い本と良い友達を持ってください」

「恩は返すだけじゃくって恩送りって言葉があるんだよ。私たちに返すんじゃなくほかの人にしてあげたらいい」

【『法とは何か』読了】
法とかを考えるに当たっての基本的な考え方を、いくつか勉強。

これを基礎に、憲法。民法。勉強します。

【政策】
政府の行う政策について、議論しようと仕掛けたが、「ガツン」と遣られました。全く、アホです。

基本は、市場メカニズム。それが機能しないとき、政府の出動。

このあたりを基本に、考える必要がある。

【予定】
勉強進まず。
年賀状書きも進まず。
家に、いつ帰れるのやら。レポート、3本、書かないと行けません。

【占領と改革】岩波書店ホームページより
雨宮昭一『シリーズ日本近現代史(7) 占領と改革』 

「新憲法の制定、女性参政権、教育の民主化、農地改革、財閥解体など一連の戦後改革は、占領政策によるものとされてきました。しかし実は、改革の原点は占領政策にはなく、戦前・戦時の社会から継承されたものだったのです。占領開始からサンフランシスコ講和条約調印までの戦後十年を、斬新な視点で描きだします。」

楽しみですね。。。「斬新」さに、期待ですね。。。

2007/12/25

寒い。寒い。寒い。

【心に残る言葉 NO.3】
「人は、短所ではつまずかない。長所で苦しくなる」

「すべてにおいて、理屈が説明できるようにならなければ、その仕事ができるとは言えません」

「予定は守らなくていい。でも、約束は守りなさい」

「何事も始めることが50%の成功」

「青春の夢に忠実であれ!」
・・・高校3年生の冬、大学受験もそろそろ本番が近くなり、期待と同時に焦りや諦めの気持ちが出てなかなか勉強がはかどらなかった時に、高校でいつでも相談に乗っていただいた先生から言われた言葉。

【『法とは何か』】
読書経過中。今日中に、読む予定が・・・。自分の能力の限界と、集中力の脆さに。。。

【個人と集団との関係】
 よく言うことなのであるが、僕は集団が苦手である。というよりも、集団に対する信頼感が低い。だからといって、集団に入ることを完全に拒否することもしない。

明らかだが、個人で出来ることは限られている。何か実現したいのなら、組織に入り、その中で、実行していくしかないというのは、一つの現実なのではないか。

高校の時に、クラスの人々の欺瞞的な行為を、机を引っくり返しそうな怒りをもちながら、見ていた。また、そのような雰囲気自体が、僕を苦しめた。どうして、そのような欺瞞的な行為を、全体は許容するのか。どうして誰も何も言わないのか。

僕は、当時、まだ、自分の感情を示すということを知らなかったので、集団から、縁を切るという手段によって、自分の「正義」を守ろうとした。

そうこうする中で、いろいろ考えた。まずは、一人は、孤独であるということ。一人の力は、微小なこと。実現したいことがあれば、一人では無理で、集団の中に入らなければ行けないということ。

そして、今僕は、集団は嫌いだが、集団に入らなければ、実現したいことが出来ないから、入ろうと希望している。

その組織にいる人たちの何人かは、次のようなことを言っていた。「組織の中で、皆で、何かを実現することが楽しい。だから、自分は組織に入った。」

僕も、このことを否定するものではない。おそらく、この時に、重要な分かれ道があるとするなら、組織というものに対する主観的な感情であろう。

それに対して、好意的な感情を抱くか?それとも、敵意を抱くか?一般的な組織に対しては、敵意を抱いたとしても、好意を抱けるような組織のあり方というのは、どのようなものなのか?

・・・

【課題】
全く、日程表が進まない。ウツウツ。ウツウツ。やばい。やばい。勉強の密度を高めるとともに、気合の程度を高めるしかないのではないかと観念しています。。。

2007/12/24

外は寒い。。。

就職活動の一環で、メールして返事が来ないのは、何となく精神的にストレスです。一つのことに集中すれば問題ないのにも関わらず、それが出来ない。僕は、脆いです。

さてさて、
【心に残る言葉】
「反省は、太く短く」

「見たところまでうまくなれる」

「1年目は、とにかく会社に来なさい。
2年目は、仕事を覚えなさい。
3年目に初めて先のことを考えなさい」

「凡人になろうとする人は、凡人でない」

【アヒルと鴨のコインロッカー】

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』を読んだ。電車とか、歩きながらとか、疲れた時に、読み、やっと、読み終えることに成功。

女性の書いた小説だと、作者を確認せずに読んでいました。というのは、文章の感じが、爽やかな感じがして、このような文章は女性だと、僕の中では信念があったからです。

そんなわけで、ふっと表紙を見て、男性が書いているのを確認して、ほんの少しビックリ。

さてさて、この本は、畏友が面白いと言っていたので、読んでみました。実際、面白かったです。文章が、スゴク爽やかな感じがして、僕は好きでしたね。

内容も、推理小説?と、考えながら読んでいたのですが、まぁ、一つのエンターテイメントとして、読むことが出来るでしょうね。面白い小説を探している場合は、お勧めです。スイスイ読めます。

久しぶりに小説を読んだことになりますか。前は、夏目漱石の何かを読んだような記憶があります。あんまりないんですね、小説を読む機会が。そもそも、読む動機がない。

小説を読む方というのは、どういう動機で読むのでしょうかね???
エンターテイメントでしょうか。

それとも、教養を身につけるという動機でしょうか。

自分の内面的な悩みとかと対話するためでしょうか。

・・・

僕の場合、エンターテイメントに関しては、映画が代替しているし、それ以外の部分も映画がフォローしてくれているような気がする。

だから、別段に、わざわざ、文章を読むという「ツライ」作業をする動機がない。さして、僕の「悩み」とかを受け止めてくれている小説とかも、あまり知らない。それなら、案外、映画の方が、僕に対して、様々な示唆を与えてくれる。

そんなわけで、僕は、映画を見ます。もちろん、小説も、面白いのがあれば読みます。

【熊井啓監督】
NHKのETV特集で、熊井啓監督について知った。

映画「海と毒薬」は、見たことがあった。

この監督の問題関心というのが、スゴク共感できる部分があった。社会の欺瞞とか、不公平とか・・・。

重そうな映画ばかりだけど、自分の考えを深めるためにも、見てみようかなと、思いました。

【年賀状】
明日までには、年賀状を書かなければいけません。泣きそうです。。。

2007年も、あと少し。

【情熱大陸】

テレビ番組「情熱大陸」に、坂東眞理子さんが出演されていた。200万部を超える『女性の品格』の著者で、昭和女子大学の学長さんをされている方だ。何とかの品格とか、怪しいとかを思っていたのだが、なかなか面白そうな本かもしれないと、思うようになった。

基本的には、当たり前のことをしましょうね、という本だと、思われる。

特に、印象的だったのは、官僚組織の中で、生き残っていくために、最も大事な存在である、家族を犠牲にして、働きまくったという話だった。

僕は、素朴に、そんな組織が間違っていると思う。

そうしなければ生き残れない個人が悪いのではなくて、そこまでさせる組織が悪いと思う。どうすればいいのかというアイデアはないが、変えなければ行けないという点だけは、確信された。

僕は、どんなことでも、それが問題で変えたいと思うのなら、変えられると、今のところは、信じている。組織が破綻するまで、問題のまま継続するのか、それとも、その問題を変えて、よりパフォーマンスを向上させていくのか。

ある意味、その当事者一人ひとりに、問われていることだと思う。


【心に残る言葉】
ほぼ日刊イトイ新聞×日経アソシエの『みんなで集めた心に残る言葉 2008』より

毎日、心が暗くなりそうなので、いい言葉を読んで、元気になりましょう。というわけで、毎日、1ページ分の言葉を書きます。継続は力なり!!!

「あれでよかったんだろうかと後悔するのは、その瞬間の今に集中していないからだよ」

「これから、やるかやらないか、迷うことがあったら、すべてやりなさい」

「愚痴も自慢のうち」

「すべての人に好かれる必要はない。すべての人を好きになる必要もない」


【日経新聞 経済教室】
2007年12月18日朝刊
一橋大学教授守島先生の「『人的資本形成』重視を」を読んで

この小論が少し面白かったので、その紹介。

結論を抜粋「『人生前半施策』、特に人的資本の適切な形成を効果的に行うことが、長期的に競争力の強化、社会的なコストの低減、公平な社会の実現につながるはずである」

事後的な社会福祉よりも、その前に、効果的な「人的資本形成」に最重点的に投資することで、社会を公平で効率的にしていくよ、という考え方を、文章化しているのを、初めて読んだので、少し感動。「格差」とかに興味がある方は、一読をお勧めします。


【銭湯】
金曜日。学校が終わったので、部屋の大掃除をし、体の大掃除ということで、銭湯に行き、のんびり風呂に入りました。

久しぶりの銭湯、久しぶりにのんびりしたこともあり、昔のことを、いくつか思い出すことになった。

大学1年の頃、銭湯が一つのコミュニティ施設になっているのを見て、何か感動したこともあった。

・・・いろいろ昔のことを懐かしく思い出す。

銭湯は、今は、どちらか言うと、斜陽気味ですね。それは、そこの空間にある、レトロな感じが、それを象徴しているような。でも、少し前の昔には、この銭湯は、日本社会の公衆衛生の向上に多大な貢献をしたことは、間違いないことであろう。

現在の豊かな国日本と、発展途上にあった日本との、ちょっとした繋がりを、僕は銭湯で感じました。

2007/12/20

梅佳代さんみたいな視点を大事にしたい

今日(20日)も、また、都心の方に、スモール旅行に行きました。とにかく、人が多いのが、僕には、印象的です。そして、そこには、様々な人たちがいます。

まず電車に乗ると、真面目な顔をして考え込んでいる小学生を見ました。小学生なのに、複雑そうな顔をして悩んでいる姿に、少し可哀想な感じを僕はしました。小学生の時は、毎日24時間笑顔でいいですよね。

そして、四谷に行くと、ニワトリのような髪型をした女性を見ました。赤色の髪です。ユニークだと思いました。

そんなわけで、いろいろな人が社会には、いるのだということを、少し感じた一日でした。

「コロッケパン」状態

地下鉄・丸の内線を22時あたりに乗っていると、スゴク多くの人が電車に乗ってきました。あまりの人の多さに、押しつぶされそうになり、コロッケパンのコロッケのような押し付けられようでした。

ただ、この人の波も、一駅で解消したので、何ともスゴイ現象だったと思いました。もしも、サラリーマンの方で、毎日、この「コロッケパン」状態を強いられている人がいたら、気分は最悪だろうなと思いました。

さてさて、今日も、油断をしたら、風邪をひきそうなくらいに寒い日でした。僕の部屋は、とてつもなく寒いので、それが最近の問題です。ただ、今日は風邪ではなくて、2日酔いで最悪の気分で一日が始まりました。

午前中は、いつ吐くのか、不安でした。そこは、気合で1時間目2時間目を乗り越え、徐々に体調も回復してきました。気合の重要性と、次の日に休めない授業があったら前日は飲みすぎないという計画性の重要性を痛感しました。

時間も遅いので、そろそろ書き終えますが、金曜日に授業が終わるので、まずは、授業に集中していきたいと思います。

2007/12/17

【反省】ブログ真面目宣言

□ブログ

興味深いブログを見つけたので、その紹介から。

http://totodaisuke.weblogs.jp/

です。

昔、この方の本を読んだことがありました。この本も、ハーバードのMBAに在籍中に書かれたものだった、と記憶しています。

『ハーバードMBA留学記』

最新の『日経アソシエ』を眺めていると、彼の記事が載っていました。

彼の真似をして、それなりのブログを書いていきたいと思います。内容×質を高めていきたいと思います。

多くの場合、僕のブログは、読書感想文、卒論の貼り付け、雑感、映画の感想です。あと、横に、僕のが見つけた、それなりに面白いのではないかという情報を張っています。これからは、出来るだけ、雑感を書くのではなく、自分なりの見方を表明したり出来る場所に変えていきたいと思います。だから、朝ごはんの献立を書いたりすることは、しないように努力します。

それでは。。。

2007/12/16

洗濯物を干しながら、青空を見上げる。。。寒い。。。

内容のないブログを書いていると、自己嫌悪に陥るので、「真面目に」、書く癖を付けたいと、常日頃から考えています。

案外、このように書き始めてから、自分の考えが、まとまり始めたというのも事実です。あと、話をするのが苦手なのも、書くということで、インプットが強化されたことより、多少は、解消されつつあるのではないかと、自己分析しています。

まぁ、そういうわけで、書く余裕がある時は、きちんと書きましょう。(来週は、レポート2本と、宿題がたっぷりあるので、涙の1週間になりそうです。。。。。)

日本が抱える根本的な問題
□環境問題
□少子高齢化問題

があると考えられる。各問題については、有名なので、省略します。

これら、2つは、これまでの日本の「システム」「構造」を抜本的に変革することが求められている問題です。そうしないと、実態と、「システム」「構造」のギャップのために、多くの無駄と苦しみを生むことになります。生活も不幸せになると考えられます。

環境問題については、日本の場合、環境省という役所があり、様々な施策が計画・実行されている。話を聞く限り、独立した省として制度的な裏づけもあるので、相当、潜在的な力を有しているのではないかと、僕は見ている。

そういうわけで、それなりに、何とかなるのではないかと、思う。

問題は、少子高齢化問題だと思う。どうしてかというと、老人省が、存在しないなど、つまり、高齢化に対応した社会の「システム」「構造」への対応が遅れているのではないか。

これは、ある意味、無理もないことなのかもしれない。というのは、1970年代に日本は高齢化社会になり、その1990年代に超高齢化社会になり、2010年には、4分の1が、高齢者の社会になろうとしている。現実が、とてつもない速さで変化しているのである。

日本の戦後、「若くて貧しい」日本の「システム」「構造」では対応できない事態に直面しているのである。

こういう高齢化の問題は、所謂先進国では、共通の問題であるが、その問題の深刻さでは、日本が最先端にあるということは、周知の事実であろう。だからこそ、逆に、この問題を速やかに、解決し、そのノウハウを世界に売り込むチャンスがあるのではないか。

変化の最前線にいるということを、ポジティブに捉えていくことが必要なのではないか。


別の話題・・・

戦後日本の構図・・・
敗戦:
戦後復興から、国際社会への復帰へ

1960年あたりの貿易の自由化以降:
国際社会への復帰から、貿易立国・経済大国への道へ

失われた10年・15年以降
成熟国家への転換、中国とか韓国から追いかけられる、

僕の卒論では、これからの日本のあり方を捉えなおすに当たり、その前のシステムが、どのように形成され、どのような特徴を持ち、また、それらが、今日どのように問題になっているのかを、クリアーにするのが目的。

別の話題・・・
関満博『地域産業の未来』有斐閣、2001年。読了。

地域のこれからのあり方について思いを巡らす。水曜日に、経済産業省の政策説明会で、地域産業政策を聞くので、その予習と、月曜日の授業の予習を兼ねた読書であった。

時代の変化に如何に対応していくのかについて、構造的に分析された箇所が多く、考えが、スゴク整理された。

関先生の本は、繰り返しが多く、そのため、エッセンスを学ぶのが簡単なので、良い。ただ、その繰り返しが、少し気になる時もありますが。まぁ、これからの日本のあり方について興味がある方は、一読してみては如何でしょうか?基礎的な知識としては、日本語が読める程度で大丈夫です。。。

2007/12/14

オフ、終了。。。

映画「7月24日通りのクリスマス」「台風クラブ」を見た。

「7月24日通りのクリスマス」は、まぁ、そんな感じ、という映画だった。上野樹里さんが出ていた。。。確かに、中谷さんと、上野さんの年齢の差が、露骨に出ていた映画であった。

「台風クラブ」。この映画は、なかなかの名作だそうなので、見た。面白かった。分かりやすい映画ではない。ドラマの延長にある映画とは、一線を画した映画であることは、明らかである。

この映画は、少しお勧めかも。

オフ突入。少し休む・・・。

卒論報告

2007年12月14日
芋月俊博
□卒論の構成
1.はじめに[1][2]
 経済大国日本の基点として、貿易・為替の自由化を見ることが出来るのではないか。
2.統計で見る日本経済の発展[3]
3.貿易・為替の自由化への過程[4]
4.貿易・為替の自由化とは何か
5.その結果(国内の産業構造の転換や、生産性の上昇による国際競争力の強化とか)
①日本の農業[5]
 ②大企業[6]
 ③中小企業[7]
 ④エネルギー[8]
 ⑤都市
 ⑥地方
 ⑦国民意識[9]
 ⑧文化
 ⑨海外との関係
  ・・・
6.結論
高度経済成長期における、貿易・為替の自由化は、どのように、日本を変えていったのか。経済大国としての日本が、どのようにして作り上げられていったのか?また、高度成長と、貿易・為替の自由化との関係について。貿易・為替の自由化を、歴史上に、どのように位置づけるのか?

□報告
3.貿易・為替の自由化への過程
 
①貿易為替の自由化の背景
日本の高度成長が進むにつれ、しだいに欧米からの貿易為替の自由化要求が高まった。まず、日本の戦後の1959年までの経済発展を貿易に焦点を当てながら見ていきたい。

輸出額について見た時に、1953年時点においては13億ドルであったのが、56年には25億ドル、59年には59億ドルと増えていった[10]。53年の段階と比べて、4.5倍もの増加が見られた。しかし、59年における他国と比較した場合に、まだ、この段階では、差が大きいのは明らかである。アメリカは日本の約5倍、イギリスは約3倍、西ドイツは約3倍であった。
 次に、日本の貿易構造について見ていきたい。1950年の段階においては、総輸出額に占める重化学品の割合は30.4%、その他は69.6%であった[11]。そして、1959年には、重化学品の割合は39.8%、その他は60.2%であった。確かに、貿易構造における高度化は進んでいるのは認められるのが、ただし、その割合は十分ではないということができそうである。
 以上、見てきたように、確かに、高度成長が進むにつれ、日本の輸出額は増え、また、貿易構造の高度は進んでいったが、この段階での貿易自由化は、なかなか厳しいものがあったのではないかと、推察される[12]
 では、日本がこのような経済状況の中で、どうして、貿易為替の自由化が求められていったのか。その背景[13]について、見ていきたい。

 まず1つ目の背景としては、戦後圧倒的な経済力を有し、その経済力で、西側世界を支えていたアメリカが、自由化要求を始めたということがあった。それは、西欧や日本の経済が発展するにつれて、アメリカの経済的地位は低下し、これまでのように経済援助や海外軍事支出を行うことができなくなったということがあった。そして、その「ドル散布」を貿易黒字でカバーしきれなくなり、1958年頃から慢性的なドル流出に悩まされるようになった。しかも、59年には日本の対米輸出が大幅に増加して、対米貿易収支が戦後初めて輸出超過を記録したということがあった。
 2つ目の背景としては、西欧諸国が1958年にEECを結成するとともに、自国通貨とドルの交換性を回復し、為替取引の正常化に踏み出し、対米差別輸入制限を大幅に撤廃するということがあった。このことも日本の貿易・為替自由化を促す一因であった。
 
しかし、貿易自由化の動きは、国外からだけではなかった。日本の国内においても、いち早く時代の変化を見定めて、それに素早く適応していこうという考えもあった。『戦後産業史への証言』[14]における今井[15]の話によると、1958年10月あたりの話として「・・・国内には割り当てによる弊害問題があるし、外には貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本精神に基づく動きが出来てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろう」と考えていた人もいたそうだ。
 そして、西ドイツが8条国への移行を宣言し、イギリスも宣言し、そしてフランスも間もなく行われるようになるだろう。アメリカ、カナダはすでに8条国になっている。つまり、欧州の国々では、次第に為替管理、輸入宣言を撤廃していく中で、必ずや日本にも、その波が押し寄せてくることは避けられない状況であるとの認識がもたれるようになった。そして、今井は当時、通産大臣だった池田勇人にレクチャーをして、賛同を得たらしい。
 このような国内における認識にもとで、原綿・原毛[16]を中心とする輸入自由化促進が発表[17]され、そして、1960年1月には政府は貿易自由化促進閣僚会議を設けることになる。つづいて、3月に通産省が、貿易・為替の自由化の基本方針を決定し、6月に貿易為替自由化計画大綱が発表されることになった。
 以上のように、国外からの圧力があったようであるが、それ以前に、日本の国内において、その国外における変化に対して、敏感に反応して対策を講じようとした人たちがいた。そして、結果として政府の政策となり、60年6月の貿易為替自由化計画大綱という形に至った。

②貿易自由化の「積極派」・「消極派」の意見について

ここでは、貿易自由化に対する「積極派」「消極派」の考えについて見ていきたい。まだ、十分に調べられていないので、今回は、『戦後産業史への証言』にある佐橋滋および今井善衛の「証言」を使って、整理していきたい。ちなみに、この両者は、昭和30年代において、貿易自由化に対して消極または積極の派閥の中心的な存在であった。

まずは、「消極派」に属していた佐橋の考えに見ていこう。まずは、貿易自由化の考えについて見ていく。「私の考えは、基本的には貿易自由化は当然進めるべきだ、しかし、ヤミクモに走られてはかなわない。当時、戦後10年で一応経済成長はなし遂げられたけれども、日本のそれぞれの産業、業種の基盤は世界的に見て強い、堅実だという認識は持っていなかった。日本という国は貿易のサヤで生きていく貿易立国です。いってみれば原料を輸入して製品にして輸出してそのサヤで生きていく以外にもう手のない国でしてね。産業が貿易の自由化によって壊滅的な打撃を受けたら、日本はもう立つ瀬がない。だから、貿易自由化に対抗するには、どうしても産業構造体質の改善をやらなければならないし、それがある程度メドのつくまで簡単に貿易の自由化をしてもらっては困る。私は準じに自由化をやっていく。期限をつけて何年後にはどうするというメドをつけて、その間に少し荒療治ではあっても、産業界は体質を強めるための努力をせよ。こういう段取りで貿易の自由化に対抗できるようにしたらどうか、という考え方」[18]だそうだ。

だから、そのため、池田通産大臣が進める自由化の動きに対して反対することになった。それは、軽工業の自由化と、重工業の自由化を一緒の次元で考えている点に問題があるということであった。例えば、自動車業界に関しては「輸入自由化すると、日本の自動車メーカーはつぶれてしまう」という認識を持っていた[19]。そして、「当時、日本経済発展の柱は、かつての繊維から重化学工業へ移ってきているし、その重化学工業がこれから伸びようとしているところを、性急な自由化でもみくちゃにされたのでは、日本経済の伸びはないという使命感」を持っていたそうである。[20]

自由化を推し進めようとした政治家池田の路線に関しては「とにかく政治家の考え方には、『なんとかなる方式』があるわけです。追い込めば日本の経済の底力でなんとか対応する。安全、安全とブレーキを踏んでいるよりは、オカイコぐるみから出して、風の中へ放り出したほうが早いと考えておられたようですね」と、厳しく評されている。[21]

 次に、貿易自由化「積極派」の今井氏の考えについて見ていきたい。まず、インタヴュアーの次のような発言があった。「・・・担当されている局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。」そして、今井さんの発言は「それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、なるようにしかならないという見通しが、われわれは先に立ちますからね」とある[22]。これは、上で見た佐橋氏の批判する池田氏の考えに通呈するものがあるように思われる。

 自動車業界に関しても「業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組み立て工場を作るかもしれないと、外資の進出を非常に恐れていました。」とある。そして、その外資恐怖症の原因について次のように言っている。「当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、『そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もう飲まざるを得ない、妥協せざるを得ない』という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ず
うっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考えです」[23]のようだ。

その考えの基盤には、日本の産業に対する次のような考えがあったそうだ。インタヴュアーの発言として「貿易の自由化を一方的に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって。業界の引き締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる。繊維なんかはそんなことしなくてもよかったわけですが、他の産業についてはそういう考えはなかったですか。」とある。それに対して、今井さんは「それはありましたね。・・・その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自体も自信がなかったのでしょうね。それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任ではなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の法はやっぱりミクロの問題として、また自分たちの問題として真剣に考えています。あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような態度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどのように見ていたんだという気もしますね。」[24]とのことです。

 このような見方の違いは、どのような所に起因するのだろうか。これについては、それぞれの価値観に起因しているというのが、現段階での考えである[25]

 ただ、池田勇人も、政権についてからは、その中間の政策を進めていくことになる[26]。池田は、首相就任後の新政策への抱負を次のように語った。インタビュアーが「貿易為替の自由化から、今後国際収支を心配するむきがあるがどうか」との質問に対して、池田は「とりこし苦労する必要はない。24年、私が大蔵大臣になったとき、手持ち外貨はゼロであった。それがいま15億6000万ドルもある。外貨準備の手持ちは潤沢で心配ない。輸入原材料がふえて外貨が減っても、綿花・石油・羊毛の在庫が増えれば心配する必要はない。自由化して輸入が増えるようでは、なんにもならない。自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段である。このごろ輸入がふえているのは機械類である。これは将来の輸出の準備をしているのだから、心配はいらない」と、貿易自由化への不安は無いと答えた。また、インタビュアーは「貿易自由化で安い商品が外国から流れこむという心配について、首相の考えを聞きたい」と質問した。それに対して、池田首相は「外国から安い商品が流れこむまえにこれを防ぐ準備をしてから、自由化をする。日本の商品が外国商品とくらべて、どうしても安くならないものについては、関税などで対処する。ガットでも除外例が認められているのだから、これを適用してもらうようにすればよい」と、保護的措置を講じつつ、自由化を進めていくことが示された。

 以上のように、考えの上では、様々な、対立があったようだが、実際においては、その中間のような政策が採られていったことが分かる。

③「貿易・為替自由化計画大綱」
 1960年6月に、政府は「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定した[27]。この大綱はまず、「資源に乏しく人口の多いわが国経済が今後長期にわたって発展するためには、世界の経済交流の進展に即応しつつ、海外諸国との自由な交易を一層拡大してゆくことが不可欠の要因であると考えられるので、自由化を極力推進することは、世界経済の発展のための国際的要請たるのみならず、わが国経済自体にとって、きわめて重要な課題となっている」と述べ、自由化に前向きの姿勢を示した。そして、自由化の国内経済へのメリットとしては、「・・・貿易および為替の制限を積極的に緩和し、経済的合理性に即した企業の自主的な創意と工夫を一層重視することは、わが国経済に対して多くの好まし効果を期待することができる。すなわち、自由化により、従来の管理統制に伴う非能率や不合理性は排除され、低廉な海外原材料等の自由な入手が一層容易となり、産業のコストは引き下げられ、企業は国際的水準における合理化努力を要請されるなど、自由化は経済資源の一層効率的な利用を可能ならしめ、経済の体質改善を促進するとともに、広く国民の生活内容の向上に寄与し、もってわが国全体の利益を増進するものである」と言っている。

 もちろん、メリットだけでなく、問題点があるということも指摘されている。「しかしながら、実際に自由化を促進するに当たっては、まず長年にわたり封鎖的な経済の下で形成された産業経済に及ぼす過渡的な影響に十分考慮を払う必要がある。またわが国経済は西欧諸国とは異なり、過剰就業とこれに伴う農林漁業における零細経営および広範な分野における中小企業の存在などの諸分野が包蔵し、また育成過程にある産業や企業の経営、技術上の弱点など多くの問題を有している上に、わが国を取り巻く国際環境についても、欧州共同市場のような長期的に安定した協力経済圏を有していないこと、およびわが国に対してなお差別的な輸入制限措置[28]が取られている例が多いことなどについて注意する必要がある」とある[29]

 そして、この大綱において、輸入自由化のタイムテーブルが明らかにされた。「本計画を推進することにより、昭和35年4月現在において40%であった自由化率を、3年後においてはおおむね80%、石油、石炭を自由化した場合にはおおむね90%に引き上げることを目途とする」とされた。
 また、自由化に伴なう経済政策の基本的方針と対策[30]として、以下、8点が出された。

1. 経済の安定を保持しつつ高度成長を図る

2. 雇用の拡大と流動性向上に努める

3. 輸出の拡大と経済協力の推進を図る

4. 自由化の積極的利点を生かしつつ産業構造の高度化を推進する

5. 農林漁業の体質改善および中小企業の近代化に努める

6. 企業の体質改善のための環境整備に努める

7. 産業秩序の整備を図る

8. 関税率および制度を改正する

とある。自由化の流れを積極的に受け入れて、日本の近代化を推進していこうという姿勢が見える。

 商品別の自由化計画は次のようであった[31]。①早期に自由化する(おおむね1年以内)②近い将来に自由化する(おおむね約3年以内に自由化する)③時日をかけて自由化する(現状の判断では3年以内に自由化するのはむずかしいが、それ以後近い将来可能なもの)④自由化の困難なもの、の4つのグループに分けられ、弾力的に運用されることになった。

 以上、貿易自由化に対する日本政府の姿勢について見てきた。積極的な姿勢を示し、そして、そのメリットを強調するも、その問題点も指摘されるなど、当時において、「積極派」「消極派」で、対立していたことが推察される。

4.貿易・為替の自由化とは何か
 
①為替・貿易の自由化とは?
貿易為替の自由化とは何かということについて見ていきたい。貿易為替の自由化が実施されるまでは、輸入品は対象品目ごとに必要な外貨を通産省が割り当てる「輸入割り当て制」[32]、輸入申請とともに外貨の割り当てを自動的に受ける「自動割り当て制」[33]、さらに自由な輸入が認められている「自動承認制」[34]に区分されていた。自由化政策とは、具体的には「輸入割り当て制」、「自動割り当て制」から「自動承認制」に転換していこうとするものであった。

②貿易・為替の自由化の推移
自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[35]。1960年4月において、
41%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%
となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われ、工業製品については、比較
的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは自由化の
直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に与えた影
響は、それほど大きくはなかった。


□参考文献

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[1] IMF・GATT体制
 ・世界貿易の拡大(とくに先進工業国間の水平貿易)
 ・割安な固定為替レート
 が、日本にとって、有利な外的要因として働いた。このような世界的な構造についても、調べる必要がある。
[2] 課題の再掲:
・戦後日本の高度経済成長が日本社会を大きく変化させた
 →いかに日本社会を変化させたか?
・ここでは、高度経済成長期の「国際化」に焦点を当てながら、その適応過程が、いかに
日本社会を変化させていったのかについて見る。
・先行研究、特に、経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したの
かについて検証しているものが多い。このような研究の場合、経済成長に焦点が当てら
れていて、その時代に生きた人々への言及が不十分となっている。政府と民間の経済成
長への動きによって、その時代に生きた人々は大きな影響を受けている。もちろん、影
響を与えることもあったであろう。この卒論では、政府と民間そして社会の3つの連関
の中で、高度経済成長を見ていく。
・また、社会史においては、具体的な経済成長に関する言及が少なく、当時、政府や民間
などの行動によって、社会が大きく既定されていたことを考えると、同様に、政府と民
間、社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていくことが必要である。
・以上、この卒論では、「国際化」の過程を、日本の政府・民間と社会、そして外国が、ど
のようにして適応していったのかについて見ていく。
・注意したいこととして、外資を敵視するのではなくて、外資の導入によって、いかに日
本の「近代化」や「現代化」が進んだのかという視点を入れていきたい。
[3] 2007年9月3日の報告
 ・1960年までのGDP比較
 ・一人当たりのGDP
 ・産業構造の高度化
[4] 2007年9月3日の報告。
[5] 2007年10月27日の報告。
[6] 当時の自動車業界などの重工業が、如何にして、後に、競争力を持つようになったのかということを、きちんと調べる必要がある。つまり、貿易自由化の後の経済政策を含めて、企業・政府が如何にして、対応していったのかについて調べてみたい。
『毎日新聞』1960年7月6日朝刊に、次のような記事があった。「自由化対策の一環として、国産品愛用センター、優秀品を検査、奨励」「通産省では貿易自由化対策の一環として国産品愛用運動の展開策の検討をしていたが、5日、機会メーカー代表15人が構成する国産品愛用促進専門委員会を開き国産品愛用センターの設置を決めた。このセンターのねらいは、米国の米国商品優先購入法を参考にして、日本人の船来品崇拝思想を改め、貿易の自由化後も国産品の購入を促進するところにあり・・・」
 7月7日の社説では、その通産省の動きに賛同を示す文章が書かれている。
[7] 『現代中小企業史』によると、重化学工業化に遅れ労働集約型産業の多い中小企業にとって、貿易の自由化はマイナスであったが、結果として、それほど、影響を受けることはなかった。
[8]  石炭から石油(石炭工業の比較劣位・安い輸入石油の登場)へ
   →石油を原料とした産業への転換
     (効率的な輸送技術を持つ)
   →鉱物性燃料への依存度が高まる
    ←石炭を基幹産業とする地方の変化

 日本の場合、産業用燃料である重油や石油化学工業原料としてのナフサの価格の引き下げが、行政介入で行われた一方で、比較的にガソリン・灯油が高いものになった。結果、「日本における乗用車開発では燃費を引き下げることに強いインセンティブが働き、これによって開発された日本車の燃費性能の高さは石油危機後、石油価格が高くなると、日本車の利点になるという、意図せざる成果も生まれた」とする(橋本他『現代日本経済』p.140-141)。
[9] 『毎日新聞』1960年6月30日によると、次のような記述がある。「特別外貨割当を廃止」「海外渡航、自由に」「政府は29日、さきに発表した貿易・為替の自由化計画に基づき本年度上期を限りに外貨資金特別割当制度の廃止を決定、これにともない7月4日から海外渡航および海外駐在員事務所の設置について為替制限措置を大幅に緩和することを発表した。こんごの制限緩和は去る2月の自由化措置に続くもので、この結果、貿易業者、メーカーの渡航費に関する‘輸出実績の3%’というワクはなくなり、一般の渡航についても純粋の観光旅行以外はほとんど自由に認められるようになった」
 このような流れから、学生の海外旅行というのが、活発化していったことが分かる。学生が海外に行くようになって、日本社会が、どのように変化していったのか調べたい。小田実『何でも見てやろう』が参考になるのではないかと、考えている。
[10] 『通商白書 昭和35年』p.150。
[11] 重化学品の中には、機械類・金属品・化学品が含まれる
 その他には、食料品・繊維品・非金属鉱物製品・その他が含まれる。
[12] 『通商白書 昭和35年』p.74。
[13] 『毎日新聞』1960年6月21日は、次のように海外からの貿易自由化の背景を述べている。「一昨年12月、非居住者勘定の交換回復にふみ切った西欧各国は近く居住者についても自由化の方向に進み、イギリス、ベネルックス三国が遅くも秋までに完全自由化となる予定で、その他のフランス、イタリアでも同時かあるいは少し遅れて完全自由化することが見込まれている」「一昨年来外貨準備高が着実に増加、去る5月末14億19百万ドルとこれまでの最高を記録した。昨年一年間の輸入金額に対する外貨準備の割合も37%で、フランスの35%よりも高く、今後も国際収支の不安を招く心配はなくなっている。」「経済成長は世界の水準に比べ、はるかに高く、物価も極めて安定しており、他のアジア・アフリカ諸国とは当然区別されるべきであるとの意見がIMF加盟国間の間でかなり強まっている。」
[14] 『戦後産業史への証言』p.170-171。以下は、この本を参照。
[15] 今井善衛は、昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。当時、いわゆる「民族派」の多かった通産省の中で、少数派であった「国際派」に属していた。城山『官僚たちの夏』の玉木は、今井善衛のことであろう。
[16] 『戦後産業史への証言』p.172-173を参照。(今井)「・・・34年の夏ぐらいには、だいたい自由化の方向が出ていたんですけれども、すぐ明日実行というわけにはいかない。・・・」(今井)「池田さんは自由化の方向で腹を決めていたのですが、政務次官の原田憲さんが繊維業者がたくさんいる大阪(3区)で、原田さんのところに逐一情勢が入ってくる。原田氏から『このまま自由化やったらおれもたまらないし、池田は総理をねらっているんだけど、これもマイナスになる。いずれにせよたいへんなことになる。その前に、ひとつうまくやろうじゃないか』との申し入れがあった。はじめ私どもは、35年のできれば秋ぐらいに原綿の自由化をやりたいと思っていたんですが、原田氏などの意向で、それでは通産大臣があまりにも強引なことをやりすぎると受け取られるので、自由化時期を延ばせといい、私に指示があって、ほとんど発表した実施時期を延ばすよう訂正させられた。大臣のお声がかりという名目でした。」
[17] 『通商産業政策史 6』p.13によると、1959年のガットの東京総会において、日本の貿易自由化の方針が公表されるにいたったとある。
[18] 『戦後産業史への証言』p.135。
[19] 同、p.141。
[20] 同、p.141。
[21] 同、p.145。
[22] 同、p.176。
[23] 『戦後産業史への証言』p.175。
[24] 同、p.177。
[25] 就職活動の一環で、経済産業省の方に、質問をする機会を、何度か持った。その時に、今でも、「民族派」と「国際派」の対立があるのかどうかについて尋ねてみた。結果、無いという答えもあったが、今でもあるという答えもあった。大きなビジョンとして、国際化というのは、共有されているそうである。次の段階で、国際化の原理原則を優先するのか、それとも、日本の会社を応援しようとするのかで、その違いが出てくるとのことであった。特に、後者の「民族派」の考え方は、何か、学問的な基礎があるわけではなく、どちらか言うと、「ナショナリズム」に近いと考えられる。
[26] 伊藤『池田勇人とその時代』p.108-109。
[27] 『通商産業政策史 17』p.376-378。
[28] 『差通商産業政策史 6』p.13によると、イギリスの例が書かれている。「戦後イギリスは、日本に対し厳しい差別的輸入制限を実施しており、また、30年の日本のガット加入に際して、ガット大35条の援用により最恵国待遇の供与を拒否した」とある。
[29] 『通商白書 昭和39年』p.116においても、問題点が指摘されている。日本の所得水準は低く、国富の乏しいこと、農業・中小企業の生産性が低いこと、大企業についても国際的には生産・経営規模が劣るものが多いこと、社会的間接資本が不足していること、消費者物価の上昇傾向が強いことなどなど。
[30]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、p.168。
[31] 『毎日新聞』1960年6月22日。
[32] IQ制
[33] AIQ制
[34] AA制、自由化品目
[35] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[36]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、p.168。
[37] これに先立つ、1960年6月20日に、世界銀行理事の渡辺武は、自由化について、コメントした。その中で、次のようなコメントも含まれていた。「ハガチ―事件、アイク訪日中止など今回の国内の事件は非常に残念で、信用を建直すには大変な努力と時間を必要とするだろう。しかし問題は今後の収拾方法にある。私の意見としては、反米は一向に差支えなく、国論がひとつに統一されている方がむしろ不思議だといえる。世銀・IMFの各国理事の考えも同じだと思う。問題はこうした反対意見が議会という一定の秩序の中で動くかどうかにある。秩序のない国には金を貸す気にならないのは当然である」(『毎日新聞』1060年6月21日)
 安保騒動が、国内的な問題だけではなく、国際的な問題であったということを示す証言であろう。安保騒動などの国内問題を、国際関係を踏まえた上で、評価し、位置づけていく必要がある。
[38] ■:読んだ。 □:読んでいない。 ○:参考にした。

2007/12/04

映画渇望症・・・涙・・・。。。

表題「『禁断の惑星』と『激突』を素材として、人間と文明との関連について、各自の意見を述べよ」


社会の「変化」の早さ・大きさは、私たちに、少しの戸惑いと、大きな希望を抱かせる。インターネットの普及・発展は、私たちの生活を大きく「変化」させ、「IT革命」とさえ、呼ばれている。その一つ一つの「変化」に対して、私たちは、影響を受けざるを得ない立場にある。もちろん、その「変化」を拒否することも出来るのかもしれない。しかし、その場合、例えば、文明史のレジュメを入手することが出来なくなるなどの、不利益を被ることが考えられる。実際に、「変化」に対応できていないということで、大きなコストが発生することになるだろう。つまり、その「変化」は、私たちに、受け入れさせるようなメカニズムを有していると考えてもいいであろう。


人類の歴史を考えた時に、そのような「変化」は、幾度も起きてきたし、これからも、起き続けるであろう。このような「変化」に対して、敏感であるために、そして、その脅威を相対化するという意味でも、人類の「変化」の歴史を学ぶ必要があるのであろう。


ここまでに、何度か使ってきた「変化」という言葉の説明を行いたい。その前に、「文明」についての定義をする必要があろう。「文明」についての定義については、様々な見解があるそうである。よって、ここでは、一先ず、第2講の資料のp.1に従って、「文明」について、「グローバル(大域的)、『野蛮』の対極、都市的・技術的普遍性」とすることにする。そして、「文化」についても、「ローカル(局所的)、風土的、生活と伝統、個別具体的習慣」とする。以上のように、言葉を用意した上で、「変化」について考えると、これは、「文明」内部での構成要素の発展や移り変わりを表していると、ここでは考えることにしよう。


結局、私たちは、何かしらの「文明」空間にいて、その内部の構成要素の発展や移り変わりに影響を受け、それに対して、戸惑いや、希望を抱くようになっているのである。もちろん、私たちは、いつも受動的だというわけではなくて、積極的に、その「変化」を作り出すこともある。例えば、企業などの活動におけるイノベーションは、それに携わる人々からすれば能動的なものである。明らかではあるが、私たちは、その「文明」空間の下で、大きな利益を得ている。それは、私たちの生活を振り返った時に、その生活を豊かにしてくれている財が、その多くが「文明」によるものであることからも、確かであろう。これまた明らかであるが、その「文明」による財が、何かしらの悪意や間違いなどによって、私たちに対して大きなコストをもたらすことがある。よって、生活が豊かになる面がある一面で、それとともに、何かしらかのリスクを背負うことになっている。これが、「文明」のもとで、人間が取り組んでいかなければ行けない課題であろう。如何にして、その利益を最大化して、そして、そのリスクを管理していていくのか。これは、「文明」のもとで、生活していく人類にとって、非常に重要な問題であろう。これについて、以下で、『禁断の惑星』と『激突』を素材にしながら、考えていくことにする。


まずは、2本の映画をもとに、「文明」における利益について確認していきたい。『禁断の惑星』では、ロビーと呼ばれるロボットがいて、その主人たちの生活を支えていた。例えば、成分を調べるだけで、お酒を作ることが出来たり、あと、服や宝石のネックレスを作ったり、そして、家事全般をこなしたりしていた。家事からの解放というのが、これまでの「文明」における「変化」の方向性であることを考えると、その一つの到達点として、そのロボットを見ることが出来るのかもしれない。その時、私たちは、完全に家事から解放されるのである。次に、『衝突』から見ることができる「文明」からの利益について見る。この映画の場合、中心は、車そしてトラックである。これらは、私たちの生活に欠かせることが出来ない道具になっている。これまでは歩いていっていた所を、車を利用することで、時間を短縮することが出来る。また、荷物を積み上げることによって、人間が運べる以上のものを輸送できるようになった。特に、交通手段の無い所では、車やトラックからの利益は大きい。以上のように、映画を見た中でも、「文明」からの利益は、大きいと言うことが出来るだろう。


次は、そのリスクについて見ていきたい。『禁断の惑星』では、その「文明」が生み出してしまった「イドの怪物」が描かれていた。これは、人間の深層心理が機械装置を通して生み出していったものである。この機械装置も、当初は、社会の利益などの別の目的のために使われていたことが考えられる。そうすると、『禁断の惑星』の「イドの怪物」は、悪意があった場合に、人間に大きな損害を与えるということを象徴していると見ることが出来る。それを、もっと、具体的に描いていたのが、『衝突』であろう。上でも、確認したように、車やトラックは、私たちに大きな利益をもたらしてくれる。しかし、悪意があった場合や使い方を間違った場合に、車やトラックで人に危害を加えるということが想定される。その時、大きな利益を受けている裏返しの大きな力によって、損害を被ることは、明白である。映画では、悪意のある人によって、車の運転手が、トラックでひき殺されるそうなるという話が描かれていた。トラックの運転手が、どのような人物で、どのような意図を持って行動しているのかが分からないので、車の運転手が持つ恐怖心は最高潮に達していた。この映画では、トラックによって、人と人との間を直接ではなく、間接に接触することが出来るようになった結果、悪意のある人々にとっては、より、その行動を実際に移しやすい環境にあるのかもしれない。結局、誤って損害を被るリスクと、悪意のある人が、そのような行動を行いやすいというリスクというのが、存在しているのではないか。つまり、そのような、リスクを抱えながら、「文明」からの利益を私たちは享受していると言うことが出来るのではないか。


以上、「文明」からの利益という側面と、リスクという側面を確認してきた。これを踏まえて、如何にして、私たちは、このような状況に対処していくのか。『禁断の惑星』では、アルテアの高度な「文明」を、どのようにして管理すべきなのかという場面があった。モービアス博士は、知能の低い人々に、この「文明」を伝えると、それを悪用される危険性があるとして、知能の高い自分が管理することが正しいと言っていた。他方、船長は、連邦政府に、預けるべきだと言っていた。この映画では、最終的に、モービアス博士の「イドの怪物」が暴力的に暴れだしたことからも、それを一人の知能の高い人々に預ける危険性が描かれている。ただし、他方で、アルテアの高度な「文明」も、結局は、自分たち自身で、それを破壊してしまったということからも、「民主的」に管理するからといって、必ずしも、安全が確保されないということが示されていた。


この問題は、統治制度の問題に帰着できると考えられるが、ここでは、私見を提示するだけにとどめておくことにする。知能の高い少数者による管理だと、情報入手コストが掛かりすぎるために、現実的ではないであろう。また、上のような暴走も考えられる。したがって、「民主的」管理が、より望ましい。もちろん、これにも問題はある。例えば、悪意のある人々が、他人に被害を与えることが考えられる。このような行為が取り締まられていることは明らかではあるが、このような行為を完全になくすことは出来ない。つまり、利益とリスクを背負って、私たちは生きなければ行けないことになる。もちろん、全ての人が善意に基づいて行動していると期待したいが、現実は、なかなかそうではなさそうである。
 

「文明」による利益とリスク、そして、それを如何にして対処するのかについて見てきた。結論としては、利益とリスクを背負いながら、私たちは生活しなければ行けないというものである。しかし、私たち一人一人の努力によって「変化」を起こし、その中で、「文明」のリスクを低減することが出来るであろう。負の側面を「現実」として受け入れるのではなくて、それを「変化」させていくことが必要なのではないか。「文明」という、とてつもなく大きなものの前で立ち止まるのではなくて、それを一人一人が「変化」させていけると意識を変えることが求められている。

2007/12/01

impressions

○今日の中心

ロジスティクスの作業を行う。難しいと、スゴク実感。この規模が大きくなったら、もっと複雑で、責任が重くなって大変になるであろう。

こういう経験は、一度経験しておこうと思ってやってみた。予想通りに、いろいろ、これまで自分が気をつけてこなかったことなどが明白になり、スゴク勉強になる。段取りをすることの重要性。緊密な連絡・・・。

ある人が言っていたが、社会人にとって、ロジスティクスの評価が、出世のポイントらしい。少しうなずけるような気がする。

○11月30日WBS

日本の景気の行方???

消費者物価指数↑、・・・「個人消費」先行きに不安?
アメリカ経済、経済成長見通しを下方修正
外国人投資家の「日本株離れ」
ガソリン税、税金の役割。社会的なインパクト?現状維持か、減税か???
道路特定財源。
地方再生。地元のやる気。

○人口問題

生産。生産要素は、資本と労働。そして、それらの関数としての生産関数。

日本は、少子高齢化社会に突入し、生産が減少していくという局面に立っている。そういう時代を踏まえて、例えば、経済産業省は、生産関数の上昇、つまり、イノベーションを推進したりしている。

何となく、最近、労働経済学に興味を持ち始めてきた。如何にして、働くというインセンティブを社会において、作っていくのか。その先に、これからの日本社会への一つの答えがあるのではないかと、期待して、真面目に勉強しようと思う。

案外、経済学のモデルを使って、現実を考えると、面白いですね。やっと、経済学の「意味」が分かってきました。

インセンティブ整合的な社会の形成。そして、「楽しい」社会。

○レポート

明日、徹夜で、レポートを書くことになるだろう。文明と人間との関係について。文明って、何だ?というところから、議論していかなければいけない。早く書こうと思う。