2007/10/29

継続は力なり。

昨日、今日と空がスゴク綺麗です。特に、昨日の朝に、サエキの通りを自転車でぶらぶらしている時に、前に、富士山がくっきりと見えたのには大きな感動を覚えました。何とも言葉にできない感情が沸き起こってきました。

同時に、あのように美しい景色を、美しいと見ている人たちは、どれだけいるのだろうかと考えました。心の余裕の問題なのでしょうか。その美しい景色を見ずに、通り過ぎていく人々とすれ違いながら、考えました。

一瞬でありますが、そのような人々を見ながら、自分は、一人なんだと感じたりしました。(これは、決して、マイナス的だけの意味ではないでしょう・・・)


さてさて、今日は関先生の授業があったので、その復習を書きましょう。重要ポイントを羅列していきたいと思います。

まずは、感想から。ある学生が授業が終わった言った言葉「NHKスペシャルみたいだった」。そんな授業でした。けど、授業のいろいろのところで、やはり、何かしら興味深い捉え方とかをしています。

まずは、中国の外資導入の歴史を書くと
1978年の改革開放

1984年

外資進出の第1期(89年の天安門事件)

1992年(南巡講話)

第2期(97年のアジア通貨危機を経て)

2002年

3期

2007年以降続く

それぞれの特徴として、外資の進出の形態には3種類があるという。
合弁(外資と国内の合弁。外資の株式保有率25%以上)・合作(何でもあり!!!)・独資(外資100%)

第1期では、合作・合弁・独資の順。外資の進出のノウハウが不十分だったこともあり、制度的に不明確な合作という形態が取られることが多かった。

第2期では、合弁・独資・合作。ノウハウの蓄積から、徐々にルールが定着か。

第3期では、独資がほとんど。それは、2002年に独資内販自由化が認められるようになった(それまでは、禁止されていた)。

ただし、基幹産業や、エネルギー、通信、流通、金融などでは、独資を認めない。このあたりの事例から、このような産業の重要性について、再考する必要があるだろう。だから、グローバル化だからといって、安易に、全ての産業を自由化するのは、明らかに問題を抱えているのだ。

そんなわけで、2002年に独資の自由化が進行。結果、日本企業でも、その恩恵を受けた企業と、そうではない企業に分かれることに。

その恩恵を受けた企業の代表は、キヤノンだそうです(キヤノンですよ。キャノンではない!)。というのは、キヤノンはそれまで中国市場を市場だと考えておらず、積極的に進出していなかった。そのため、内販において制限のあった独資という形態でしか進出しておらず、中国はあくまでも生産拠点であった。ところが、独資制限の撤廃と、また、中国の市場の可能性が広がったことによって、逆にキヤノンは、チャンスを得ることに。というのは、中国におけるキヤノンの会社は全てキヤノンの会社であり、そのため、ガバナンスをしっかりした上で、経営戦略を進めることができた。

逆に、損をしたのは松下や三洋。これらの会社は、早期から、中国の市場に進出し、内販が許される合弁を立ち上げて、進出していた。中国の現地の会社と、松下などとの合弁であった。結果、独資自由化後は、合弁ということがネックとなり、ガバナンスが利かずに、統一した経営戦略に失敗することになった。それは、現地の会社は、地域によって別であり、結果、松下などの合弁会社は、それぞれ会社であり、競争における敵であった。

いろいろ書きたいことがありますが、分量が多いので、止めます・・・。


今日は、4時間目の授業が、突然(?)休講になっていたので、ショックを受けました。週1回の国際政治史の授業。スゴク楽しみにしていたのに・・・。予習も、していたのに・・・。映画「大統領の理髪師」映画「猟奇的な彼女」映画「君に捧げる初恋」が予習でしたけど・・・。「大統領の理髪師」は、60年からの韓国社会が描かれていたので、少しは参考になるかな???

明日は、ゲーム理論。

2007/10/28

学んで思わざれば即ち罔し。思うて学ばざれば即ち殆うし。

樋口陽一「立憲主義の日本的展開」中村政則他編『戦後民主主義』岩波書店、2005年。を読みました。一読だと、もちろん、理解できません。反省。

ただ最後の文章が気になったので、書くと・・・
「高度経済成長以後、さらに『日本の形』は変わったが、『苦しみを持たない変革』から50年たって、『苦しみを持たない』ままに『近代』を手放してよいのかどうか。―――それが問題である。」

近いうちに再読しようと心に誓う。

2007/10/27

韓国の映画を見る。。。

昨日、ある友人と、お酒を飲みました。とにかく、「勉強しろ」と言われました。

さて、そんなわけで、お酒を飲んだので、その後、勉強するわけもなく、2本ほど、映画を見ました。

映画「間宮兄弟」
映画「君に捧げる初恋」
です。

「間宮兄弟」は、コメディー映画で、楽しむために見ました。実際に、面白かったです。だから、楽しむためには、見るのに最適だとは思いますが、どうも投下時間に対して、効用は少ないという印象も、今はあります。

次の「君に捧げる初恋」は韓国の映画です。こちらも、楽しい映画ですね。少し前に、映画「僕の彼女を紹介します」を見たのが、このように韓国の映画を見るようになった理由です。

この映画は、題名からも分かるとおりに、lovestoryですね。正確に言うと、コメディlovestoryですね(lovestoryをどのようにカタカナで書くのかを失念したので、英語で書きます)。

男と女の関係性の移り変わりが、描かれています。少し前に、韓国の映画は、朝鮮半島における韓国と北朝鮮との関係をモチーフにしたものが多いという話を聞いていたので、もしかしたら、この映画も、その線に沿ったものかもしれません。確かに、そう見ることもできるのかもしれません。

まぁ、そろそろ書くのを止めて、勉強します。

2007/10/25

A Person of Leisure

今日も、公共経済学で上手くいかずに、泣きそうでした。相当、レベルの高い授業だと思います。休みの日に、集中的に勉強して、月曜日には、何とかしようと思います。

さてさて、今日は何冊かの本を読んだので、まずは、その記録から。

・川島・服部編『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007年。

↑読み終わる。ただ、再読しなければいけない・・・。政治史なので、何かしら、違和感を感じます。その違和感は、僕の最近の関心が社会とかにも向かっているからでしょう。だから、そのあたりを欠如しているのを読むと、違和感を感じるのでしょうね。

・関満博『変革期の地域産業』有斐閣、2006年、序章。

↑序章だけ、読む。今学期、関先生の授業を聴講しているので、その一貫として、近日中に、読みすすめようと思う。様々な「地域」の「現場」が実況中継されている。中央集権的な国から、「地方」へと大きく変容していると考えられている中で、彼の議論は、その「変化」に関心がある人には、スゴク参考になるのではないか。「実況中継」なので、経営とかを全く勉強していない方でも、読むことができます。(ただ、日本語が読めないと苦しいですが・・・)

・桐山他『東南アジアの歴史』有斐閣、2003年、2章。

↑ミャンマーやタイの19世紀以前の簡単化した歴史を勉強。これは、ルーティン読書である。

なかなか、本も読めないと痛感と反省と涙。。。


疲れてきたので、少し前に録画した映画を見ることに。
映画「僕の彼女を紹介します」

↑面白かったです。スゴク面白かったです。これまで、韓国映画を見る機会があまりなかったのですが、これを機会に積極的に見ていこうと思いました。(これまででは、「JSA」「殺人の追憶」「シルミド」を見ました。ただ、国際政治を学ぶ一貫として見ていました。)

今度、楽しそうな韓国の映画を見てみようと思います。何かしら面白そうな映画をご存知なら、教えてください(*^_^*)。。。(何となくですが、韓国映画というよりも、韓国の映画と言う方が、しっくり、します。)

チョン・ジヒョンさんがスゴク、キレイだとも思いました(●^o^●)。

その後、NHK教育の「知るを楽しむ」で見城徹さんの話を聞きました。「戦う」ということを、さっぱりと、定義されていたことが、スゴク印象的でした。

僕は最近、大学を出る方策について考えているのですが、滅私奉公のようなことはしたくないと、よく考えます。たとえ、それが社会のため人のためであっても、それはおかしいのではないかと思います。僕は、個人の犠牲の上に立つ正義か利益とかに対して、スゴク???です。

僕は、社会や人のために尽くすことと、自分の人生を楽しく充実させることとは、両立すると思います。だから、僕は、ある職場が滅私奉公のようなことを求められるところであっても、それに追随するのではなくて、その「滅私」を求める制度を批判していきます。


23時からは、NHKの「SONGS」を見ました。中村中さんが今回、取り上げられていたアーティストでした。

もちろん、これを見るまでは、知りませんでした。けど、表現するということなどについて話をしているのを聞いていると、何かしら自分に通底するようなところを感じました。

僕自身の中に存在する表現したいという渇望に何かしら響いたのかもしれません。最近は、あまり、考えませんが、高校の時は考えましたね。

高校の時に、組織というものに、絶望したので、絶望というのは、どうして、人間というのは、組織の中にいると腐るのかだめになるのかということを考えました。その結果、よく、アジア・太平洋戦争関係の本を読みましたね。ホント、今考えても異常なくらい読みましたね。濫読で、かつ、田舎の誰も教えてくれない中で読んだので歪みはひどくなりましたが、まぁ、考え続けました。

最近は、全うに社会の中で、生きていこうと考えているので、表現したいという渇望はあまりありませんね。あっ、少し前提にしてしまいましたが、社会で「全うに」生きるということと、表現への渇望は、トレードオフなのでしょうか?

ただ、僕の感覚からすると、表現に渇望がある人は、楽しい意味で少し「変」な人が多いのかもしれません。まさしく、「変態の森」の中にこそ、ウヨウヨいるのでしょうね。

少し書きすぎました。反省。

2007/10/24

The Road to Excellent man

今日は、電車に乗っていると、あまりの人の多さに、何かしら気分が最低に悪くなりました。人前にいると、最近、直ぐに、肩が凝ってきて、疲れる。。。

電車に乗らなくなったことから、ストレスへの耐性が失われてきたのでしょうか。

さてさて、今日も予習が上手くいかずに、ゲーム理論で泣きそうでした。難しい。。。次回金曜日はリベンジです。水曜日・木曜日と2日使って予習します。

そうそう、明日、公共経済学があり、こちらも予習が必須なのですが、これは、朝、気合でやろうと思う。

最近、精神的な余裕がなくなってきて、どうも、周辺が見えにくくなってきているような感じがします。今日も、知り合いとすれ違ったのですが、気づかず、気づいた時には、すれ違っていたという最悪なことをしてしまいました。反省、ごめんなさい。

どうも、視覚が下前になってしまいます。つまり、足元しか見ずに、歩いているということです。

今日の進歩としては、勉強の優先順位をつけて、優先順位の低いのを切ったりしました。そろそろ、悠長なことも言えなので、優先順位を付けて、勉強します。当分は、ミクロ経済と授業の公共経済・ゲーム・労働経済です。

あと、毎日一つくらい、中原中也の詩を暗記して、美しい日本語を勉強しようかと考えたりしています。

2007/10/22

牛のように、ゆっくりと!着実に。。。

今日は、畏友に晩飯をご馳走になり、かつ、いろいろな悩み事(歴史の対象とか)を聞いていただきました。感謝。

人に聞いていただくことにより、自分の悩みや考えが言語化できていないことを、猛烈に痛感。また、悩み足りていないことも判明。

『のだめカンタービレ』とか、先ほどの、NHKスペシャルを読んで、見ていて感じることは、対象に「没入」することの重要性・大切さ。

「没入」できていないから、考えが悩みが足りないんだと反省。日々、浮気症のために、いろいろと興味が分散してしまったり、そもそも、集中力が足りなかったり、集中できる状態ではなかったりとかとか、反省。

学問をしている範囲が広い(数学から、ゲーム理論、公共経済学、経済史、国際関係史、そして、近日中には、ミニスカートの歴史とかも調べようと考えている)ことを言い訳にしないで、全てでAを取ることを、短期的な目標に。

そして、同時に、「夢」をよりクリアーにする努力も。(「夢」を「志」とかのように別に言い換えることもできるだろう)

まぁ、その前に、目の前に高く積み重ねられたペーパーと本、そして、明日のゲーム理論の予習をやろうと思います。

そうそう、加瀬和俊『集団就職の時代』を近日中に読む予定。。。
あと、進藤栄一『敗戦の逆説』(学校の図書館にも、国立の図書館にも入っていない。。。ガビーンーーーーー。)

2007/10/20

公正で、効率的で、「楽しい」社会を目指して

今日は、新宿に行き、少しブラブラしました。紀伊国屋書店で、本を買い、ベスト電器でプリンターのインクを買いました。東急ハンズでは、香りのする置物(名前を失念)を買いました。あと、CDショップ(店の名前を失念)でX-JAPANのクラシック版を買いました。

交通費が高いことや、あまり行く用事もないので、今日は、まとめて、新宿でいろいろしました。

その行く途中で、南口のドーナッツ店で、スゴイ行列を見ました。とうとう、橋の半分を超えて、人が並んでいるのを見た時は、何ともスゴイと思いました。どれだけ美味いドーナッツなのだろうかと思いました。ただ、僕は自分のためには、あんな行列に並ぶ気は起きないだろうとも思いました。

さてさて、今日は天気も良く、南口の高島屋への橋を渡っているとき、上を見上げると、スゴクキレイな空が広がっていたのが、印象的でした。キレイだと思える気分的な感情が、自分の中に、まだ、あったことに何かしら安心を覚えました。

僕は、空が好きで、特に、青空ですね。ただ、ギンギンの青空は少し嫌で、雨の後の空とか、夕日と混在した空とかが好きです。

大学の兼松付近から見る、図書館や兼松講堂が見える空も好きですね。緑豊かで、趣のある建物があって、スゴクキレイです。

高島屋の上の方から、東京を見渡したのですが、東京は、都心から離れたところは一面住宅のような建物が永久に続いているようですね。上海の一番高い展望台から見るのとは、都市の風景が違うということを、久しぶりに高いところにいて、横を見た時に、思いました。

やはり、東京だね、と思いました。

最近、卒論のことが頭から離れなくて、よく考えます。新宿も、戦後において、急速に発展してきたんだよねとか。中央線の混雑も、戦後の時期において、形成されてきたんだねとか。満員電車とかも、人口移動の結果起きたんだよねとか。

今あるものが、所与ではなくて、かつてのどこかの時期に形成されていったんだということをよく考えます。その形成のされ方は、その場所場所の初期条件の違いによって、様々な「均衡」になっていくんだよねとかも考えます。

前回少し調べたこととして、高度経済成長期の貿易自由化の結果、畜産の飼料の輸入割合が大半を占めるようになったということがあった。この状態は、今日まで続いていることだと思うんですけど(調べていないから嘘の可能性大!)、こういうのを調べていると、飼料であるトウモロコシとかの輸入先であるアメリカの農産物に対する政策とかに注目していかなければいけないと強く思う。

日本社会全体において、アメリカに対して飼料を依存している仕組みが出来上がっていることが、歴史を見ていくと明らかである。だから、今日明日にできた仕組みではなくて、もう何十年も続いているようなことだから、その根が深いことを痛感する。こういう依存関係にあるので、何かしらアメリカで問題が起きると、日本に甚大な被害が降りかかってきてしまうことも分かる。

さて、大江健三郎『日本の「私」からの手紙』をやっと、読み終わりました。いろいろ考えさせられるという点で、面白い本だと思いますよ。

特に、最終章は、大江さんが、どうして小説を書くのかという点が書かれていたので、何かしら考えさせられた。

彼は、その生きた時代時代に規定された主題に取り組んでいったことが書かれていた。

そして、僕自身のことも少し考えた。時代に規定された主題を選ぶというのは、この章を読む前から、僕自身の中で、考えていたことだった。

僕は1985年に生まれて、

10歳は1995年
1995年は地下鉄サリン事件、阪神大震災とか日本が最悪に暗かった時代だ。

15歳は、2000年
僕たちの世代は、子供という、最も「純真な」(=経験が少なく、周りからの影響を直接的に影響されやすい)時期に、日本社会にとって「失われた」時代を過ごしたのだ。テレビから流される日本社会の荒廃や、自分の周りから、または親から間接・直接に聞かされる、様々な「嫌な」話を、心の中に溜め込んできたのだ。この時代的な経験を、私たちは、それぞれ、自覚的になる必要があるのではないか。

16歳に、2001年

18歳に、2004年。
この年に大学に入学したのであるが、小泉構造改革以来、日本経済の復活のために、積極的に外国のものが受け入れられていった。MBAとか、外資とか、ベンチャーとか、いろんな外国的なものが入り、それに翻弄され、大いに反感を覚え、そして、しかし、それに追随しなければいけないとも思った。

そして、2007年10月21日。眠い・・・。

2007/10/19

卒論報告第4回目

1.前回までのまとめ
 
(1)問題関心
  ①「国家」に対する考え[1]
  ②高度経済成長に対する考え
   →高度経済成長において、日本は経済的に発展した。同時に、日本社会の「近代化」や「現代 化」も進んだ時代だと見ることができる。この「大きな変化」のあった時代に対して、その歴史の「連続」及び「断絶」に注意しながら見ていきたい。
 
(2)1950年代から60年代の日本の概観
  ①日本経済の規模
→人口一人当たりのGDPを確認
  ②産業の高度化
 
(3)1950年代の経済政策
→様々な経済政策がなされたということを確認した。高度成長の時代は、経済政策があらゆる分野で全面的に展開し、これを梃子として資本蓄積[2]が強力に進められた時期であった。
  ①外為法
  ②租税特別措置
  ③財政投融資
  ④個別産業育成政策
  ⑤行政指導
  ⑥金融政策
  ⑦構造政策
  ⑧経済計画
 
(4)貿易の自由化
  ①貿易為替自由化の背景
→「国外」からの圧力と、「国内」からの動きがあった
  ②貿易為替自由化への官僚の反応
→貿易自由化に対して、当時通産省で消極的な立場と積極的な立場の代表的な地位にいた人の考えを検討した。消極的な立場が、日本の現状に立脚して判断している一方で、積極派は相当に楽観的に対応していることが鮮明に分かった。
  ③「貿易・為替自由化計画大綱」
  ④自由化の推移
 
2.課題の再掲
・戦後日本の高度経済成長が日本社会を大きく変化させた[3]
  →いかに日本社会を変化させたか?
 
・ここでは、高度経済成長期の「国際化」に焦点を当てながら、その適応過程が、いかに日本社会を変化させていったのかについて見る。
 
・先行研究、特に、経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したのかについて検証しているものが多い。このような研究の場合、経済成長に焦点が当てられていて、その時代に生きた人々への言及が不十分となっている。政府と民間の経済成長への動きによって、その時代に生きた人々は大きな影響を受けている。もちろん、影響を与えることもあったであろう。この卒論では、政府と民間そして社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていく。
 
・また、社会史においては、具体的な経済成長に関する言及が少なく、当時、政府や民間などの行動によって、社会が大きく既定されていたことを考えると、同様に、政府と民間、社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていくことが必要である。
 
・以上、この卒論では、「国際化」の過程を、日本の政府・民間と社会、そして外国が、どのようにして適応していったのかについて見ていく。
 
・注意したいこととして、外資を敵視するのではなくて、外資の導入によって、いかに日本の「近代化」や「現代化」が進んだのかという視点を入れていきたい[4]

3.貿易自由化の結果
 自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[5]。1960年4月において、
40%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%
となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われたそうで、工業製品について
は、比較的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは
自由化の直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に
与えた影響は、それほど大きくはなかった。
 
以下において、貿易自由化が農産物、そして農村に与えた結果について見ていこう[6]。農
産物については、輸入制限品目は62年4月の103から64年の72に急減し、自由化率は59年の43パーセントから63年の92.1%に急増した。コメ、ムギなど国家貿易品目や、牛・豚肉、乳製品、柑橘類といった基幹的・選択的拡大対象農産物を除き、その周辺の農産物とその加工品について大幅な自由化が行われていったようだ[7]
 
その背景には、53年を転機[8]に、ムギ類や飼料用穀物、大豆などは、アメリカを中心に過
剰化と輸出余力の形成が進み、その国際価格が日本の国内価格を下回るに至ったというこ
とがあった。また、アメリカの食料戦略や学校給食の普及、高度成長にともなう所得水準
の上昇のもとで、若い世代から、パン食や、畜産物、洋風野菜[9]の消費が増え、食生活
の「洋風化、先進国化」が進み始めたという。
 
こういう背景の下で自由化が進められていったのだが、割安な農産物の輸入の増加は、
それらの国内生産の縮小につながった。食管制度化に貿易が政府の一元化にあったムギ類
の輸入がコムギを中心にこの期に急増し、国内生産が圧迫し、切り捨てられていき、自給
率の低下が始まったようだ。コムギの自給率は、55年は41%、60年には39%、そして、
65年には28%となっていった。

 飼料用トウモロコシは、自由化が本格化する以前に輸入がいち早く自由化され、さらに
64年にコウリャンも自由化され、この期に飼料用の穀物の輸入が急増することになる。こ
のようにして、日本の家畜業は飼料用作物の経営地での「土地利用型」ではなくて、その
全面的輸入依存による工業的な「加工型」畜産として本格的に展開することに至る。

 大豆も、ムギと同様に、自由化のために、その自給率は1ケタ台へと急落していくこと
になる。大豆は、油脂やみそ・しょうゆ・とうふなどの原料であり、その油粕が飼料原料
にもなり、製油・食品・飼料資本にとって重要な作物である。61年に自由化され、その後、
輸入急増、国内生産の急減となることになる。

 このようにして、ムギ類、飼料用穀物、大豆の輸入増大に強く影響されて、この期の農
産物輸入は60年の8.7億ドルから65年の18.9億ドルへと6年間に2.2倍に急増し、逆に
農産物自給率は穀物重量、熱量ベースともにこの期から急減しはじめた。

 ただ、60年代は一連の農産物の国内生産の減少と農産物自給率の低下が進んだが、まだ、
その程度は緩く・部分的であり、農業総生産額は金額でも物価指数でも増大することにな
ったそうだ。日本人の主食であり、60年当時ほぼ全農家の90%が作付けし、全農業生産額
の半分を占める農業の大黒柱=コメは、旺盛な需要と高米価のもとで農民は増産を競い、
ひきつづき高位生産を継続することになった。また、農業総生産額のほぼ30%を占め、国民
の需要がますます増える傾向にあり、選択的拡大の対象とされた畜産物、果実、野菜生
産を拡大[10]していった[11]

 以上、貿易自由化と、それに付随する要因による農産物生産の変化を確認してきた。ま
た、他にも、農業生産の増大のための、各種設備の導入や、高度経済成長期における就業
構造の変化によって、農村は、大きく変化していくのであった。

 貿易自由化の結果として、農産物及び農村以外にも
・地域開発計画
・エネルギー生産
・中小企業
・国民意識・・・
 など多くの領域に、様々な影響を与えていったことが予想される。その中で、「近代化」
及び「現代化」がどのように進んでいったのかまで、見ていきたい。


4.資本自由化への過程
 (1)資本の自由化とは?
資本自由化とは、1967年から1976年にかけて段階的に実施された、対内直接投資および技術導入の自由化のことである。

 (2)資本自由化前史
   ①資本自由化措置が実施されるまで外資導入は、「外資に関する法律」(=外資法)および「外国為替および外国貿易管理法」(=外為法)の下で管理されていた。
   ②そのため、外資導入に当たっては、政府の個別認可を必要とした。特に、1950年代末に国際収支が好転し、外貨準備が急増する以前は、配当・利子・特許料の支払いが、国際収支を圧迫することが懸念されたために、外資導入に当たっては、国際収支の改善に寄与するものが優先的に認められていった。
   ③外資導入申請の審査は、関係各省の事務次官等からなる外資審議会(大蔵大臣の諮問機関)が、外資法の基準に照らして行われた。
   ④外資法による外資導入は、
・直接投資(株式取得による日本企業への経営参加、合弁企業の設立、子会社の設立などの外資系企業の進出)
・間接投資(社債、貸付金、資産運用目的の株式取得など)
・技術導入
 の3つの形態に大別することができる[12]
⑤自由化以前の外資導入を3つの形態別に概観する。
 ・直接投資
   直接投資が少なかった理由は、
日本政府の審査が厳格であったこと
外国企業の側に日本へ進出しようとする意欲が乏しかったこと[13]

・間接投資
  企業(とくに電力や重工業)の外債発行や外国銀行企業からの借り入れの意欲
  は盛んであった。しかし、実際には1950年代[14]には日本の企業は独力で外国
の資本市場や、民間銀行から資金調達を行いうるだけの国際的信用を持って
いなかった。1960年代に入ってから、ようやく民間企業は海外から自力で資
金を調達することができるようになったとある[15]
    ・技術導入
      →高度経済成長期の日本の産業に導入された主要技術の大半が輸入技術であったこと[16]が示すように、企業は技術導入にきわめて意欲的であった。
      →しかし、外貨準備の制約があったために、政府は、輸出産業育成に役立つ技術輸入を優先させた[17]
      →また、外資審議会は、日本企業が競争して外国企業の先進技術を導入しようとする際において、契約条件が日本企業に不利になることを防ぐ役割を果たした。そして、不利な場合は、技術契約の申請案件について、修正を命じることもあった。技術導入許可を与えるメーカーを限定することによって、「過当競争」を防ぐ手段でもあった。

 (3)資本自由化への契機
  ①1964年4月のOECD加盟[18]
   →「資本移動の自由化に関する規約」「経常的貿易外取引の自由化に関する規約」の
2つの自由化規約を承認
→資本移動と経常的貿易外取引の自由化の義務を負うことに
  ②アメリカ企業の日本への進出意欲の高まり、そして、アメリカ政府からの自由化の圧力。
   アメリカ政府は、1965年7月の第4回日米貿易経済合同委員会そして、1966年7月の第5回合同委員会において日本政府に対して外資規制の緩和を強く求めた[19]
   ↓
   1966年7月、三木通産大臣は、1年以内に資本自由化の方針を示すことを約束。
   ↓
   1967年2月水田蔵相は外資審議会に対内直接投資の自由化方針について諮問
   →6月に外資審議会からの答申を受けて
   →7月、政府は第1次資本自由化措置「体内直接投資の自由化について」を実施
  ③日本企業の立場
   日本企業の側には、外国企業の進出を求める積極的な理由はなかった。
   →日本企業の海外進出は進んでいなかったこともあり、相互主義の見地からの資本自由化への必然性も弱かった。
  ④経団連の立場
   資本移動の自由を認めることが長期的に有利であると判断
   →1966年5月、資本自由化決議
    →経団連は通産省の原局から意見徴収を行い、自由化業種の検討
    66年9月、業種別懇談会による自由化業種の選定
    ↓
    67年以前において、第1次資本自由化への作業は経団連では、既に進んでいた
  ⑤資本自由化への政治構造
   ・積極的に資本自由化を進めようとする経団連(石坂泰三会長)
    →大蔵省の支持
   ・個別産業の利害と立場を代弁しなければいけない通産省、そして日本商工会議所
   ⇒経団連が「総論賛成」を、通産省が「各論反対」を唱えるという構図が出来上がった。

(4)資本自由化の結果
  ①「安定株主」の確保のための「系列化」[20]
 
6.課題と反省
 ・「国際化」の過程を見るからと、貿易為替の自由から資本の自由化まで全てをみることは不可能である
  →時期を区切って見ていくことが必要

 ・基礎知識の欠如などのために、書かれていることを鵜呑みにしてしまっている
  →実証して、確かめる必要がある
(三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年は、「なぜ」を問うことの必要性を、具体的に日本研究の事例を扱う中で、言っていた。実証的な検証に耐えることができないような概念を使わないように注意していきたい。)



7.参考文献
・社団法人経済団体連合会編『経済団体連合会50年史』経済団体連合会、1991年。
・通商産業省、通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』通商産業調査会1989年-1994年。
・エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言』毎日新聞社、1977年。
・エコノミスト編集部『高度成長期への証言』日本経済評論社、1999年。
・経済同友会『経済同友会50年のあゆみ』経済同友会、1997年。
・山澤逸平他著『貿易と国際収支』東洋経済新報社、1979年。
・毎日新聞社編『一億人の昭和史 高度成長の軌跡』毎日新聞社、1976年。
・毎日新聞社『高度成長』毎日新聞社、1984年。
・朝日新聞社編『朝日新聞に見る日本の歩み 高度成長への信仰』朝日新聞社、1977年。
・大蔵省財政史室編『昭和財政史―昭和27―48年度』全20巻、東洋経済新報社、1990-2000年。
・経済企画庁編『戦後日本経済の軌跡 経済企画庁50年史』大蔵省印刷局、1997年。
・同編『経済白書 昭和39年度版』大蔵省印刷局、1964年。
・マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年。
・『毎日新聞』
・通商産業省『通商白書 総論1964年』通商産業調査会、1964年。
・通商産業省『通商白書 総論1960年』通商産業調査会、1960年。
・土門拳『ドキュメント日本 1935年―1967』小学館、1995年。
・通商産業省編『商工政策史 10巻』商工政策史刊行会、1961年-85年。
・太平洋戦争研究会『GHQの見たニッポン』株式会社世界文化社、2007年。
・日本放送協会放送世論調査所『図説戦後世論史 第2版』日本放送出版会、1982年。
・三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年。
・東京都写真美術館編『昭和の風景』新潮社、2007年。
・赤瀬川原平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波書店、2007年。
・内田公三『経団連と日本経済の50年』日本経済新聞社、1996年。
・マーク・フューステル編『日本の「自画像」』岩波書店、2004年。

辞書・辞典:
舘龍一郎編集代表『金融辞典』東洋経済新報社、1994年。


本・論文[21]
□青木昌彦『日本経済の制度分析』筑摩書房、1992年。
□同『比較制度分析に向けて』NTT出版、2003年。
■赤澤史朗「所得倍増計画と高度経済成長」歴史学研究会編『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
■同「昇りつめた高度成長」歴史学研究会編『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
○浅井良夫『戦後改革と民主主義』吉川弘文館、2001年。
■同「資本自由化と国際化への対応」中村政則編『日本の近代と資本主義』東京大学出版会、2002年。
□雨宮昭一『戦時戦後体制論』岩波書店、1997年。
■同「1950年代の社会」歴史学研究会編『日本 同時代史3』青木書店、1990年。
□荒川章二「日本型大衆社会の成立と文化の変容」『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
■アンドルー・ゴードン著、森谷文昭訳『日本の200年上・下』みすず書房、2006年。
□同編『歴史としての戦後日本上・下』みすず書房、2001年。
■五百旗頭真編『戦後日本外外交史』有斐閣、2006年。
■伊藤正直「高度成長の構造」渡辺治他編『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、2004年。□伊藤元重『産業政策の経済分析』東京大学出版会、1988年。□猪木武徳『経済思想』岩波書店、1987年。○猪木武徳・安場保吉編『日本経済史8 高度成長』岩波書店、1989年。
□色川大吉『昭和史世相篇』小学館、1990年。
□大門正克他著『戦後経験を生きる』吉川弘文館、2003年。
□大瀧雅之『景気循環の読み方』筑摩書房、2001年。□大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年。□同『高度成長期の政治学』東京大学出版会、1999年。□岡崎哲二、奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年。
□岡崎哲二『コア・テキスト経済史』新世社、2005年。
□香西泰『高度成長の時代』日本評論社、1981年。

■同「高度成長への出発」中村隆英編『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』岩波書店、1989年。
■金子勝「『高度成長』と国民生活」『講座日本歴史12 現代2』東京大学出版会、1985年。
□上川孝夫、矢後和彦『国際金融史』有斐閣、2007年。
■神野直彦『地域再生の経済学』中央公論新社、2002年。
■菊池信輝『財界とは何か』平凡社、2005年。
□清川雪彦『日本の経済発展と技術普及』東洋経済新報社、1995年。
□高度成長期を考える会編『高度成長と日本人』日本エディタースクール出版部、1985年。
□小浜祐久『戦後日本の産業発展』日本評論社、2001年。□小宮隆太郎他編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年。
□柴垣和夫「産業構造の変化」東京大学社会学研究所編『戦後改革 8』東京大学出版会、1978年。■城山三郎『官僚たちの夏』新潮社、1980年。
□菅孝行『高度成長の社会史』農村漁村文化協会、1987年。
■鈴木恒夫「戦後日本経済システムと『過当競争』」中村政則編『近現代日本の新視点』吉川弘文館、2000年。
○鈴木良隆『ビジネスの歴史』有斐閣、2004年。
□同『MBAのための日本経営史』有斐閣、2007年。
□スーザン・ストレンジ著、櫻井公人訳『国家の退場』岩波書店、1998年。
□田代洋一他編『現代の経済政策』有斐閣、2006年。
□舘龍一郎『日本の経済』東京大学出版会、1991年。□ダニエル・I・沖本著、渡辺訳『通産省とハイテク産業』サイマル出版会、1991年。
□チャーマーズ・ジョンソン著、矢野俊比古監訳『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニ カ、1982年。
□鶴田俊正『戦後日本の産業政策』日本経済新聞社、1982年。□寺西重朗『日本の経済システム』2003年、岩波書店。
□同『日本の経済発展と金融』岩波書店、1982年。
○暉峻衆三『日本の農業150年』有斐閣、2003年。
○中岡哲郎『日本近代技術の形成』朝日出版社、2006年。
■同「技術革新」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
■豊下樽彦『集団的自衛権とは何か』岩波書店、2007年。
□中村章『工場に生きる人々』学陽書房、1982年。■中村政則『戦後史』岩波書店、2005年。
■同「1950年-1960年代の日本」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。■中村隆英・宮崎正康「1950年代の産業政策」中村・宮崎編『岸信介政権と高度成長』2003  年、東洋経済新報社。
■中村隆英「日本における産業政策の特色と評価」『週刊東洋経済』1974年6月18日臨時 増刊。
□同『日本経済』東京大学出版会、1978年。
□同『昭和史Ⅰ・Ⅱ』東洋経済新報社、1992年。
□西川俊作他編『日本経済の200年』日本評論社、1996年。○橋本寿郎『戦後日本経済の成長構造』有斐閣、2001年。○橋本寿郎他著『現代日本経済』有斐閣、1998年。■原朗「戦後50年と日本経済」『年報日本現代史』第1号、1995年。□原朗編『復興期の日本経済』東京大学出版会、2002年。
■日高六郎編『戦後日本を考える』筑摩書房、1986年。
■日高六郎『戦後思想を考える』岩波書店、1980年。
□平井陽一『三池争議』ミネルヴァ書房、2000年。□福川伸次『活力ある産業モデルへの挑戦』日経BP出版センター、2004年。
□講座現代資本主義国家編集委員会編『講座現代資本主義国家 現代資本主義の政治と国家』大月書店、1980年。
□堀内圭子『〈快楽消費〉する社会』中央公論新社、2004年。
□松田廷一『高度成長下の国民生活』中部日本教育文化会、1985年。
□南亮進『日本の経済発展 第3版』東洋経済新報社、2002年。■宮崎勇『証言戦後日本経済』岩波書店、2005年。
□宮崎義一『国民経済の黄昏』朝日新聞社、1995年。
□同『戦後日本の企業集団』日本経済新聞社、1976年。
□宮島英昭『産業政策と企業統治の経済史』有斐閣、2004年。
□三輪芳朗『政府の能力』有斐閣、1998年。
■三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年。
□同『産業政策論の誤解』東洋経済新報社、2002年。
□同『日本経済論の誤解』東洋経済新報社、2001年。
□柳川隆、川濱昇編『競争の戦略と政策』有斐閣、2006年。
□村上泰亮『新中間大衆の時代』中央公論社、1984年。■森武麿他著『現代日本経済史』有斐閣、1994年。
■同「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争第1巻』岩波書店、2005年。
□渡辺治編『高度成長と企業社会』吉川弘文館、2004年。
■同「戦後保守支配の構造」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
□山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年。
○山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一『総力戦と現代化』柏書房、1995年。
■吉川洋『高度成長』読売新聞社、1997年。
□同『日本経済とマクロ経済学』東洋経済新報社、1992年。
□同『転換期の日本経済』岩波書店、1999年。
■吉見俊哉『親米と反米』岩波書店、2007年。
■米倉誠一郎『経営革命の構造』岩波書店、1999年。

[1] これまでの報告では、過度に、「国家」の役割を強調するものであった。これは、様々な「変化」に対する、「国家」の対策を重視しているためである。
[2] 実証的に分析する必要性を感じた(三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年)。
[3]原朗は「農地改革を経て、高度成長による工業部門の急拡大の結果、明治以降もゆるやかに進行しなかった農業人口の分解が一挙に展開することになったのである。さらに長期的な観点からみれば、弥生時代に形成されてから連綿として続き、農地改革によってもなお解体されなかった農業共同体が、高度成長期の間に大きく崩れ始め、解体への道をたどることになったのである。その意味では、高度成長期における経済構造の変化は、農地改革・地租改革・太閤検地などを飛び越えて、はるか2千年前の弥生時代における変化に匹敵するといってもよいと思われる」と述べている(原朗「戦後50年と日本経済」)。
[4] 具体的には、マクドナルドやコカコーラとかを見ることになるのだろうか?
[5] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[6] 暉峻衆三『日本の農業150年』第6章を参考に以下記述する。
[7] 暉峻衆三『日本の農業150年』p.183-184。
[8] 1953年、アメリカでコムギや、トウモロコシなど穀物類の滞貨
 →輸入価格が国内価格を下回ることに
 ↓
 アメリカは過剰農産物を処理するために、対外食糧援助
 →53年、相互防衛援助法の改正法
54年、「公法480号」
→過剰農産物処理をいっそう促進するための法律
   →ドルをもたない国でもアメリカの過剰農産物を受けいれて、それを自国通貨で販売し、その代金の一部はアメリカが現地での調達にあてるが、それ以外は、受入国が自国の経済力強化のための借款として使うことができた。また、受入国農産物の一部は、学校給食のために贈与されるとされた。

 54年から56年に、日本はこの援助によって、80万トンもの過剰農産物の受け入れ
 →その売り上げ代金の多くを電源開発や、愛知用水などの農業開発
 →または、日本での軍事目的やアメリカ農産物の市場開拓のために使用
   
 54年、「学校給食法」
  →パンと脱脂粉乳による学校給食を実施することが記載された
 +56-61年、アメリカ政府の援助資金による「キッチン・カー」の全国巡回
 ⇒日本人の食生活にパン食を中心とした洋風食を導入することに
 ⇒日本人の胃袋がアメリカの農業と政策に依存し、満たされるようになる起点となった(暉峻衆三『日本の農業150年』p.158-159)。
[9] 洋風野菜が増えたということは、この本の記述からは支持されない。
[10]赤澤史朗「所得倍増計画と高度経済成長」によれば、農業生産指数(1960年を100)とする時に、1965年では野菜116、果実123および乳牛142、豚232、鶏279、鶏卵196であった。
[11]暉峻衆三『日本の農業150年』p.185。
[12] 浅井「資本自由化と国際化への対応」p.268。
[13] 1960年頃からアメリカの多国籍企業の先進国への進出が活発になってくるが、主たる進出先は西ヨーロッパであり、1960年代前半にはまだ日本への関心は低かったとしている(浅井「資本自由化と国際化への対応」p.269)。
[14] 1950年代の間接投資は、世界銀行やワシントン輸出入銀行からの経済援助的性格を帯びた借款があった。
[15]浅井「資本自由化と国際化への対応」p.269。
[16]浅井「資本自由化と国際化への対応」p.270。
[17]限られた外貨を有効に活用して国民経済の健全な発展を図ることが当面の課題となった(『通商産業政策史 6』p.77)。
[18] 日本政府がOECD加盟にきわめて積極的であったのは、アメリカと西欧の経済関係が緊密化するなかで、日本が「先進国グループ」から取り残されることに対して危機感を抱いていたためとしている(浅井「資本自由化と国際化への対応」p.271)。
[19] 外資規制の緩和が強く求められたのは、外資比率50%以上の合弁企業の設立や、外資100%の子会社設立であった。
[20]浅井「資本自由化と国際化への対応」
[21] ■:読んだ。 □:読んでいない。 ○:参考にした。

2007/10/18

反省 新聞を真面目に読む

最近、猛省しているのは、新聞を真面目に読まなければいけないということ。

もちろん、新聞を取っているが、英字なので、どうも情報収集という観点においては、効率性が大きく低下する。そして、その影響が最近、時事ネタについていけないというところに、直接的に反映するようになってきている。

今日も、泣きそうであった(涙)。。。

早急に、日経に代えようと思う。

さてさて、今日は卒論を、明日にどのように報告するのかで頭を悩ませています。こちらも、(涙)。。。

その上、授業の予習も、宿題も。。。
明日は地方財政論に、ゲーム理論。ゲームの宿題分かんない(涙)。。。

経済学を真面目に勉強するには、数学が重要なので、今期、ゲームを真面目にAでクリアーして、不足分を補いたいと思う。

今日は、吉祥寺のターミナル内のC&Cで晩飯を食べた。思うのだが、お冷に氷がたくさんあると、冷たすぎて、飲みにくいんですけどね。私は実は体が弱く、結構、冷たい水は体に悪いような感じがします。あと、歯のあたりも調子悪くなります。(そのうち、苦情の連絡を入れようと思う。かつて、ユニクロと、国立駅前の定食屋に苦情を入れたことがあるが、指摘したことに対して、直ぐに改善されていたことに何かしら嬉しい感情を持ったことがある。)

火曜と木曜と、井の頭線に乗ったのだが、この路線は、途中の駅で、たくさんの人が下車することが印象的である。僕は、もともと、井の頭線を使う必要がないので知らなかったのだが、案外、吉祥寺まで乗っている人は少ない。逆に、知らないような駅で、大量の人が降りているのに、何かしら驚きを覚えたりしました。

朝読 2

大江健三郎『日本の「私」からの手紙』岩波書店、1996年、2章。

戦後直後の日本社会の代わりのみの速さに、大江少年が戸惑いを覚えたことが書かれていた。

ただ、戦前以来、日本社会はアメリカ文化を積極的に受容してきたことを考えると、戦後直後の変化をもう少し相対的に見ることができるのではないかと思う。

卒論報告迫る!

金曜日に、卒論の4回目の報告があります。何か報告しないといけないので、ネタを探しているのですが、なかなか、どのようにまとめるのかで悩みます。今日は、これまでの報告を洗練させているという感じです。

・戦後日本の高度経済成長が日本社会を大きく変化させた[1]
  →いかに日本社会を変化させたか?

・ここでは、高度経済成長期の「国際化」に焦点を当てながら、その適応過程が、いかに日本社会を変化させていったのかについて見る。
 
・先行研究、特に、経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したのかについて検証しているものが多い。このような研究の場合、経済成長に焦点が当てられていて、その時代に生きた人々への言及が不十分となっている。政府と民間の経済成長への動きによって、その時代に生きた人々は大きな影響を受けている。もちろん、影響を与えることもあったであろう。この卒論では、政府と民間そして社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていく。

・また、社会史においては、具体的な経済成長に関する言及が少なく、当時、政府や民間などの行動によって、社会が大きく既定されていたことを考えると、同様に、政府と民間、社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていくことが必要であることはわかる。

・以上、この卒論では、「国際化」の過程を、日本の政府・民間と社会、そして外国が、どのようにして適応していったのかについて見ていく。
 
・注意したいこととして、外国を敵視するのではなくて、外資の導入によって、いかに日本の「近代化」や「現代化」が進んだのかという視点を入れていきたい[2]

[1]原朗は「農地改革を経て、高度成長による工業部門の急拡大の結果、明治以降もゆるやかに進行しなかった農業人口の分解が一挙に展開することになったのである。さらに長期的な観点からみれば、弥生時代に形成されてから連綿として続き、農地改革によってもなお解体されなかった農業共同体が、高度成長期の間に大きく崩れ始め、解体への道をたどることになったのである。その意味では、高度成長期における経済構造の変化は、農地改革・地租改革・太閤検地などを飛び越えて、はるか2千年前の弥生時代における変化に匹敵するといってもよいと思われる」と述べている(原朗「戦後50年と日本経済」)。

[2]具体的には、マクドナルドやコカコーラとかを見ることになるのだろうか?


ただ、卒論を考えていても、これを研究する今日的な意義が、不明確なので、辛いです。正直言うと、こんなの調べなくてもいいじゃない、って思っちゃうんですね。

僕の研究を真面目にすれば、きっと、高度経済成長期期の、歴史的な位置づけがクリアーになると思うんですね。つまり、その時代以前からの「連続」や「断絶」が整理され、そして、日本の「近代化」や「現代化」の過程が分かると思うんです。

しかしですね、これをすると、現在の何に、どのように影響するんですか?

確かに、過去の「国際化」の過程で、外資恐怖論があったことを確認し、今日の外資恐怖論が、いかに、浅はかなモノなのか、一面的なものなのかについて、指摘することができるかもしれない。しかし、それって、わざわざ歴史を使って示すべき事柄なのか!

歴史を研究することと、現在といかにして結びつけるのかについては、歴史を研究するものにとっては、とても重要な課題なのではないかと最近、痛感しています。

例えば、永原・中村編『歴史家が語る戦後史と私』では、歴史のための歴史に陥ったことに対する反省が、有名な歴史家を含めて、多く語られていた。

つまり、どうして「歴史を研究」するのかは、スゴク難しい問題だということだ。

特に、日本のようにナショナリズムの道具として歴史を使う必要のない国家にとっては、その解答を求めらるのは難しいのかもしれない。ナショナリズムの道具として、歴史が使われていたという話は、イギリス史の川北先生が言及されていた。よって、その道具の必要性がなくなった時に、歴史は、その必要性を見失ったというようなことが書かれていて、一番印象に残るものであった。

とかとかですね。



今日は、国立図書館に予約していた本が届いたので、それを取りに行き、直ぐに読んでしまいました。
奥山清行『フェラーリと鉄瓶』PHP研究所、2007年。

フェラーリとかのデザインとかをしていた方の本である。

内容は、想像以下であって、時間の無駄の可能性大。

ただ、磨けば光る原石を探し、それをプロデュースすることで経済を活性化していくことが重要だと考える人は一読の価値があるかも。

僕は、大きな話として、日本社会にしても国際社会にしても、資源の分配が上手くいっていないということが、重大な損失を招いていると考えている。よって、適切な分配を行うことで、社会の厚生を高めることが可能である。(この本の著者は、人材がいなくて衰退している地方の企業に対して、足りない資源、例えば人材とか人脈・金脈・ノウハウとか、を注入することによって、大きな活力を生み出そうとしている。経済的なパフォーマンスを高めようとしている。)

そのため、私は、この資源の最適化を行うことができる仕事に携わりたいと考えている。その根底には、人のために働きたいという考えがある。(どうして、そういう考えが可能になったのかについては、父からの様々な教えが影響していることは間違いない。)

どのような形の仕事なのかは、まだ、不明であるが・・・。勉強しなければいけない。

2007/10/17

朝読 1

大江健三郎『日本の「私」からの手紙』岩波書店、1996年、1章。

日本は、アメリカの「核の傘」に「守られている」。だから、他国が核を保有したり、実験したりすることに対して、世界唯一の被爆国だからといって、強く反対できにくい忸怩たる部分がある。

「核の傘」は何か?
どういう働きをしていたのか?
そして、今は、どのような働きをしているのか?

そもそも、「核の傘」で想定している「敵」は誰か?

僕の理解では、他国によって軍事安全保障上のレベルで「守ってもらう」必要のある「敵」は、世界には存在しない。ましてや、近隣諸国にも存在しない。(北朝鮮をどのように考えるのかについては、詳しい議論が必要だけどね)

核の恐怖から、また、市民を犠牲にすることを前提とした「核抑止体制」から、脱却するために、私たちは、世界的な非核化を推進していくことが必要である。(学生なので、現実がどうだとかは考えない。現実についての深い考察も必要だけども、それに囚われると、現実追従になる危険性がある。)

その前提として、私たちは、東アジアにおける非核化していく必要がある。そもそも、日本がアメリカによって「守られている」ことからも脱却する必要がある。(日本においては、「冷戦」は終わっていないのではないか!)

「人を大事にする」「国際政治のダイナミズム」に、積極的に呼応していくこと、できたら、その流れを生み出していくこと(勉強します!!!)ができたらと考えている。

一歩後退、二歩前進。

もう若くないんだと、焦りを感じる日々を過ごしています・・・。

今日も、新聞が読めていないと、相当凹んでいます。明日の予習をしなければいけない。明日は、1時間目に、難解な公共経済学がある。

ミクロ経済学の応用の応用だから、難しいんです。議論の焦点は、例外についてが多くて、だから、その正統を理解していない僕にとっては、ハフーって感じです(涙)。。。

今、日経新聞の私の履歴書に出ているのは、スタンフォードの名誉教授の青木昌彦先生である。今、彼の『比較制度分析に向けて』という本をのんびりと読んでいるのだが、難しいですね。

でも、連載を読んでいると面白いですよ。1960年前後の状況、特に、学生運動についての知見を得ることができる。その中で興味深いのは、青木先生の周りには、後に有名になる学者などが多くいたということであろう。

西部先生とかについても言及されていて、60年前後の学生運動や、その後、彼らの果たした役割について興味がある人はぜひとも読んで下さい。中曽根内閣の時の、首相のブレーンだった学習院大学の教授の先生のことも出ていた。

彼らの挫折は、その後の彼らの知的な活動に、どのような影響を与えることになったのか!

2007/10/16

関先生の「国際経営」第2回目講義

関満博先生の「国際経営」の授業を月曜日3時間目に真面目に、聞いています。でも、聴講なので、単位をとる必要もないので、毎授業の内容をここで復習したいと思います。

この授業は、授業というよりも、お話という感じですね。学者のお話というよりも、ジャーナリストのお話を聞いている感じですね。まぁ、でも、話の内容は面白く、最後まで、聴講できそうな感じです。ただ、授業を手抜きしているという感もありますね。何か話をすればそれでいいのか!

もちろん現場も重要ではあるが、全体の構造も重要であろう。僕の願いとしては、最初くらいは、世界の経済の大きな流れについて構造分析をして欲しかった。現場に裏付けられた構造分析なら、とても大きな刺激を受けることができるだろう。

さてさて、今期の授業では、中国の南の方の香港のあたりから、ベトナムまでの経済地域の発展などについて議論するそうです。

日本企業にとって、中国市場は、とても重要であることは明らかであろう。生産市場としても、または、販売市場として重要だ。

特に、南の地域は、近年、超急速に発展していると言う。広東省では、ホンダ・日産・日野・トヨタが進出し、また、下請け会社も共に来ているということだ。

この地域の経済発展を大きく印象付けられる話として空港の話があった。今、その地域にあるハブ空港においては、3本目の滑走路が建設中とか。5本を作ることが計画されているとのこと。

今ある、2本目の滑走路は、4800メートルとか。日本にある普通の空港は2500メートル。ジャンボ機でも、3600メートル程度。どうして、4800メートルなのか?

それは、スペースシャトルの離陸にも使えるためとのこと。

また、3本目の使い方は既に決まっている。それは、Fedexにレンタルするそうだ。それまで、Fedexは、フリィピンに拠点を置いていたが、それを今度、香港の上の方に移すそうだ。それは、何を意味するのか?

この地域はスゴク良い地域らしい。それは、上は北東アジア、下は東南アジアと、その中心にある。巨大運送会社の拠点移転の意味することは何か?

政治と経済の微妙なつながりなどを考えることができて、大変、面白い授業である。

眠いので・・・。

2007/10/15

悪戦苦闘?

毎日、毎日、授業に追われ、泣きそうです。少し、微妙に、泣いています。特に、授業中は、分からなくて・・・。

今期は、公共経済学、労働経済学、ゲーム理論、地方財政論が主戦場です。ただ、ゲーム理論は、夏の貯金があることもあり、楽です。冬学期は、夏で学んだ直感的な理解の上に、定義などを数学的に証明していく授業であります。

地方財政論も、時事ネタが大半を占める授業で、丁寧に、経済理論と実証の架け橋についてレクチャーがあるので、何とかなりそうです。労働経済学も、ミクロとかの知識がある程度はあるので、楽です。

困ったのが、公共経済学で、ガビーーーーーーーン。って感じです。まぁ、諦めずに、取り組んで行こうと思うのです。

全て、Aを取る、予定で勉強します。

さてさて、今日は、4時間目に東アジア国際関係史の授業があり、いつものように、真面目に出席した。ただ、今日は苦しかった・・・。

今日は、最初に、少し前の、南北の首脳会談についての話で、その歴史的な意義などについて議論された。そして、学生に対して、その意義についてエッセーを書くことを求められ、また、書いた後には、発言を求められた。

率直に言おう。僕は、最近、全く、時事について行っていなくて、勿論、事実については知っていたが、それ以上については、全く、情報を持ち合わせていなかった。

そういう状況下で、先生に当てられ、「知りません・・・」と心で唱えながら、首を横に振るしかなかった。

自分の勉強不足を痛感した。

ただ、本題の方については、内容はほとんど既知だった。大学も4年も入れば、成長するんだと、何かしら実感する。だからこそ、逆に、その成長を実践する場としての時事分析において、自分が全く不十分な対応しかできなかったことが、悔しかった。

先生、ごめんなさい。もっと勉強して、先生に、キラーパスを送ります!!!

2007/10/11

テレビ出演されたい方へ

先ほど、NHKのディレクターの方と、少しお話をしました。理由は、NHKの番組に出演してほしいとのことでした。

僕は、その収録日に、用事があったので、丁重にお断りをしたのですが、もしも、お友達で、出演したいという優秀な人がいれば紹介してほしいとのことだったので、ここで、そのお知らせを書きます。もしも、興味がある方は、今日または明日までに連絡下さい。

どうして、そもそも、そんな声が掛かったのか?

それは、少し前に、「日本のこれから」のアンケートに回答したことが原因なようだ。この番組は、様々な意見を待つ市民を招いて討論するものであり、その多様性を確保するために、僕の回答が目に留まったそうだ。そして、出演の依頼という形になった。

少しいろいろと、お話を聞いていると、この番組のアンケートに回答すると、出演につながるようだ。年内に、もう1回、番組を作るそうなので、テレビデビューしたい方は、回答してみてはいかがでしょうか。

まぁ、その前に、少し考えて、回答を作成する必要がありますが。

ちなみに、交通費と食事代が出るそうです。

2007/10/10

『経済学の使い方』を読む???

三輪芳朗+J・マーク・ラムザイヤー『経済学の使い方』を少し読む。

少なくとも、卒論においては、彼らの議論を踏まえた上で検討しなければいけないことを痛感。

三輪先生は東大経済学部の教授である。この本は、そして、一連の彼の本は、明らかに東大経済学の他の教授を含めた、これまでの日本の経済史や経営史の常識を潰すものである。

(明らかに、岡崎先生や奥野先生などを批判している箇所があり、少し、言い過ぎなのではないかと思う箇所もある。)

別に、この本では、特殊な方法によって、議論をひっくり返そうとしたものではない(と思われる)。ただ、これまで「通念」としてあったことを、データを使って実証的に分析したところ、「通念」が成立しないことが判明するのである。

この本は、明らかに、日本の知識層に大きな影響を与えてきたマルクス主義に対する嫌悪感から書かれている。そして、「通念」に疑いもなく従う人々をマルクス主義の影響下にあるとしている。それから脱却するためには、それを疑い、実証することだと言っている。

p.20-21では、「社会科」を要領よく記憶する科目・分野だと信じ込んでしまうと、次のような思考パターンになると述べている。

「(1)教科書や新聞などに書いてあることは疑う余地のない『真実』だと考えてしまう。このため、『思考停止』状態に陥り、『結論』を鵜呑みにするのが状態となる。
(2)内容が曖昧でほとんど意味のない記述を前にしても、『正確な意味を確かめ、明確化する』という当然の作業の作業をしなくなる。このため、『理解』せずに、書かれていることを鵜呑みにする。
(3)『なぜそうなのか?なぜそうなるのか?なぜそう理解するのか?』などという事象の発成メカニズム、因果関係に対する関心を持たなくなる。さらに、他のメカニズム、代替的な説明の可能性についても考えなくなる。『なぜ』という問いを忘れ、『メカニズム』に対する関心を失う。
(4)観察事実や、他の書物などの記述に照らして教科書などの記述・説明との食い違いに気づいても、それを契機に、教科書の内容に関して疑問を抱いたり、代替的な説明の可能性に関心を抱くなることがなくなる。
(5)執筆者・読者が以上の思考パターンを受け入れると、主張の妥当性を示し、読者を説得する必要性がなくなる。このため、説得のための証拠が教科書などから消え、読者・執筆者双方が、証拠を示して説得することが必要だと考えなくなる。」

とのこと。自分にも、当てはまることが多いので、何かしらギクリとする。

まぁ、いわゆる「通説」などに対して、きちんと吟味することが必要だとのことですね。たとえ、権威の○○先生が言っていても、それがきちんとした証拠を揃えた上で、議論をしているのかどうかを確認する必要があるということですね。

そのためには、議論を追うという忍耐が必要ですね。

「考え」において、この本は、スゴク役に立った。僕自身、物事を曖昧に理解する癖があり、そのため、きちんとアウト・プットできなくて、スゴク悩んでいた。多少時間がかかるかもしれないが、ゆっくり、議論を追っていくことを今日から始めようと思う。

さてさて、この著者の一連の研究によって、日本の高度経済成長の「通説」が多く、引っくり返された。今度、岩波新書で、武田晴人先生が高度経済成長について書かれる予定だ。

この三輪先生の議論を武田先生は、どのように受け止めるのか???

スゴク楽しみだ。

僕の卒論でも、三輪先生の本を読み、それに対して、何かしら言及できるようにしたい。

以上。

2007/10/08

「北朝鮮帰国船」について

NHKスペシャル「北朝鮮帰国船」を見た。国際政治が人々の人生を大きく歪めてきた「事実」が描かれていた。正直、考えさせられた。きついし、重いし、何ともいえない、「現実」の厳しさをヒシヒシ感じさせられるものであった。

この番組は、「帰国船」で帰った人からの「告発」、総連元幹部の「告発」、また元北朝鮮工作員の証言そして、各国(アメリカ、ソ連、旧東ドイツや日本など)の外交資料から浮かび上がる「事実」によって、構成されている。

全体として、北朝鮮の内実の「悲惨さ」に焦点が当てられていて、帰った元「在日」の人々の「悲惨な」生活や、北朝鮮政府から「在日」の人々に対する「要請」とかが描かれていて、北朝鮮は悪いよねとか、総連は悪いよねとかになってしまう感じがする。

「北朝鮮帰国船」に対して、「日本」国民は、どのような反応を示したのか。僕の理解では、当時の各紙をあげて、日本中をあげて、「在日」の人々を北朝鮮に送り出そうとした。

『毎日新聞』の1959年2月1日によると、次のような記述があったそうだ(自分で調べたのではないので、嘘かもしれません)。「帰国希望者をその希望地に送ってやることは、人道的に正しいし、国際法的にも広く認められている原則だからである。そればかりでなく、帰国希望者に対する北鮮側の受け入れ体制もできているとうわれるから、これが実現すれば、日本側も生活保障費の軽減や治安問題で少なからぬプラスとなり、送る側にも送られる側にも好都合ということになる。」

国民の投書として「送還に踏み切ったことは外交史上特筆に価する」とのこと。

このあたりの「事実」に対して、どのように理解すればいいのだろうか。過去の「事実」として、このようなことがあって、それを今日の私たちは、どのように理解すればいいのだろうか。「事実」を知るだけでいいのか。「事実」を知ることはどのような意義があるのか。

もちろんではあるが、日本中をあげて、どうして、「北朝鮮帰国事業」を後押ししたのかについても、番組の中において、述べられていた。アメリカの外交文書の中に記録されていた、当時の日本の政策決定者たちの考えが番組では、引用されていた。

書かれていはいたが、全体として、日本の「責任」という部分が、欠落していた番組だった。どうして、そうなのかは、もちろん不明。

描くことができない領域なのかもしれない。日本の「帝国意識」の結果起きてしまった日本の歴史的な「誤り」を、NHKという公共電波では流せないのかもしれない。また、どうして、そのような「誤り」が起きたのかについても、歴史的研究が進んでいないことも理由かもしれない。

表面的には、北朝鮮の体制や総連に対する「批判」と見ることができるかもしれないが、裏には、それを「支えた」日本社会や、政府、国際社会に対しても「批判」していると読み解くことができるのかもしれない。

手元にある資料から、この北朝鮮帰還問題の参考文献を挙げると・・・
高崎宗司他編著『帰国運動とはなんだったのか封印された日朝関係史』平凡社、2005年。
和田春樹「帰国運動とは何だったのか(下)」『論座』朝日新聞社、2004年6月。
テッサ・モーリス=スズキ「特別室の中の沈黙」『論座』朝日新聞社、2004年11月。
同「明らかになった岸政権の思惑」『論座』2005年3月。
小此木政夫監修、東北アジア問題研究所編『在日朝鮮人はなぜ帰国したのか』現代人文社、2004年。


「戦後」研究の必要性を痛感した。「戦後」についての歴史研究が全く進んでいない。「戦後」の日本の「負」の側面についての研究があまりされていない。(「負」の側面ばかりを見る必要性はないが、歴史的な現実として「負」の側面があった時に、それを描かないのは、「事実」を歪んだ形に見ることになるということは確かだろう。)

勉強不足のために、どうして歴史研究が必要なのかは不明。つまり、歴史研究の今日的な意義については、分からない。(分かろうという努力は継続中だけど・・・)

例えば、今回の事例の場合、この事実さえあまり、知られていない。よって、知る必要はある、学ぶ必要はある。どうして、知る必要・学ぶ必要があるのか?どのようにして学ぶ必要があるのか?

事実として、この事例を知った。国際化の中で、韓国や北朝鮮と会う機会が増大する中で、このような事実を知っていることは、最低のマナーであろう。

このことは分かる。

次の段階が分からない。この事実を知って、どう「反省」すればいいのか。(この事実は、まだ歴史的な事実ではない。終わっていない。)

よく「歴史とは・・・」とか言われるけど、分かんないんだよね。何を言っているのか。もちろん、分かったような気がするけど、わかんない。つまり、分かんない。

歴史を学ぶということと、現在とを、どのように結びつけたらいいのかな?

例えば、冷戦史について考えると・・・。

藤原『国際政治』の第12章「戦争とその変化」では、冷戦の起源から崩壊、冷戦後の戦争の変化についてまで描かれていた。

冷戦の起源については、ソ連責任説やアメリカ責任説、ネオソ連責任説(用語の使い方は目茶目茶の可能性大。)が書かれていて、ベルリン危機そして朝鮮戦争によって、冷戦が本格化。スターリンの死によって、一時、緩和するが、フルシチョウ政権の基盤強化と平行して、対立が激化。ケネディー政権とは、キューバ危機によって、核戦争の一歩前まで行くことに。

この危機が基点となって、米ソの間で、抑止体制の働くことに。この抑止体制が働くためには、相手が合理的な判断をできるという確証が必要であり、キューバ危機によって、それが判明することになった。米ソの間で、緊張緩和が進んだが、次にソ連と険悪になりつつあった中国が64年に核を保有。

当時、文化大革命中であり、中国の危険大。69年には、ソ連との間で、国境紛争。他方、アメリカはベトナム戦争の泥沼化が進行。このような状況下で、72年のニクソン訪中。これに焦ったソ連も、アメリカとの間で、軍縮。大国間での緊張緩和が進んだが、70年代の後半になると、各地で革命が起きる。全てがソ連が理由というわけではないのであるが、カーター政権は、弱腰の圧力を受ける。

ソ連のアフガン進行を受け、アメリカはそれまでの緊張緩和路線を修正し、強行に。そして政権は、共和党レーガンに。新冷戦の勃発。ところが、ソ連では、ゴルバチョフという新リーダーが、積極的に緊張緩和に貢献。また、ソ連の自壊も始まり、冷戦終了!

冷戦後残ったのは、唯一の超大国アメリカ。

以上が、僕のこの本を読んで理解した冷戦のエッセンスではあるが、この理解だと、今のアメリカの「力」を過大視してしまうとうな間違いを犯すのではないか。冷戦は、アメリカの「勝利」で終わったのか?

ここでは、簡単に、冷戦は多様なアクターが冷戦を突き崩すような働きをしたということだけを指摘しておこう。ここの藤原先生の分析では、枠組みとして国家を見るということであるが、この章では、明らかにヨーロッパの国々の役割が見落とされている。

この本を読みながら、歴史理解の不備が、現状分析の不備に結びつくことを発見。ただし、これは現状認識の歪みが、歴史を曲げたという可能性もあるけど。

眠い・・・。

2007/10/04

21歳、最後の日に考えた

時は流れる。流れる。そんな、感じがしました。

自分は、あまり変化していないのに、「周りの人々」(=自分と関わりがあった・ある人たち)の変化を聞いた時に、時間が物凄く流れていることを痛感。


ただ今、3つほど課題を抱えているのに、まだ1つ目さえクリアーできていない。泣きそうだ・・・。まぁ、明日も、泣きそうな顔を心の中でぐっと我慢して、溜息とかもグッと我慢して、元気に勉強したい。たとえ疲れていても、それを人前で見せると、それは他人にとっては、大変に不快なことですからね。


少し前に、中国に行き、その時、自分のために、いくつかお土産を買った。その一つが、牛の置物。机の前に置いています。何となく、最近、牛のように、のんびりと構えていることが重要なのではないかと思うからです。

昨日、小松『中田英寿誇り』を読む。昔から、世界を舞台に活躍する中田さんに興味があった。世界舞台に行くだけではなく、そこで活躍している点に何かしら惹かれる部分がある。

「全力で生きる」ということが、スゴク強調されていたことだと思う。そのあたりの「思い」を、思い出させてくれる本であった。

何となく思うこととして、中田さんは、どのように世界を見ているのかな。