2007/06/15

雨のあとの、空はキレイだ!

●『満州移民 飯田下伊那郡からのメッセージ』の感想
(感想なので、「ゆるーい」書き方です・・・「ゆるーい」「ゆるーい」)

この本の内容は長野県の飯田下伊那郡からの満州移民がどのような政治的・経済的・社会的な状況下で送り出されていったのか。そして、その送出後の満州での生活、ソ連侵攻以後の引き揚げの状況。最後に、満州移民たちの戦後様子が描かれている。また、それぞれの章には、この満州移民という歴史的事実から何を学ぶべきなのか、そして如何に今日に生かしていくのかという点についても言及されている。
 
アジア・太平洋戦争が何だったのかについて、地方という視点からの幅広い理解を可能にしてくれる本である。総力戦としてのアジア・太平洋戦争は、全ての市民の全ての生活を総動員し、そして、多くの市民の生活を破壊していったことが分かる。また、そこには、同じ市民が、その送出に大きな役割を果たしていたという「歪み」も、この本を読んで大きく考えされられることである。そして、戦後にいたっても、解決することがなかった、この「歪み」は、多くの市民に対して押し付け続けられてきた。もしかしたら、今日でも、押し続けられているかもしれない。この「歪み」について、批判していくことが必要であり、かつ、この「歪み」は何を起因して起きたのかについても考えていくことが必要であろう。この場合、その「歪み」の主体を糾弾するという姿勢と同時に、その背景にあると考えられる「近代」を批判していくという形に議論を、時代の流れに即して更新していくことも必要なのかもしれない。

ここで、忘れてはいけないのは、多くの日本の市民が国家の政策によって、多くの被害を被ったということである。国家によって、満州移民は「棄民」されたという表現も使われていた。この点では、完全に満州移民の方々は「被害者」である。しかし、一方で、それらの被害を被った市民も、総力戦としてのアジア・太平洋戦争を支えたという点では、明らかに、侵略された国の市民にとっては、加害者である。この被害と加害の重層的な責任を市民に押し付けるという点で、総力戦というよりも、戦争一般をなくさなければいけないという強い動機がここにはあると私は考える。この加害と被害の2重構造に、日本社会は悩み、苦しみ、考えてこなければなかったし、これからも、考え続けなければいけないのであろう。ただし、満州移民の方たちは、日本の社会からも大きな「歪み」を押し付けられたという点は、考えておかなければいけないだろうし、また、それを許容している日本社会を批判的に見ていくことも必要であることは言うまでもない。 

この本では、地方においては、戦争に関する加害意識が不十分であると書かれていた。[1]戦争当事者に加害者意識が足りないという点を問題視していくことは必要だろうが、でも、戦後世代ができることとしては、戦後責任を果たしていくことしかないであろう。その最初としては、事実を真摯に学ぶということが必要であろう。そして、次に、アジア・太平洋戦争から何かしら「矛盾」が生まれているのならば、それに対して、弱者の視点で解決していくことであろう。

どうして、戦後日本社会では、戦争責任を十分に果たしてこなかったのだろうか。責任主体としての日本人を十分に立ち上げることができていなかったからだという意見もある[2]。地方の場合は、外国との交渉があまり多くなかったことや、また、過去の問題に関して真摯に取り組んでこなかった、取り組むことができなかったからかもしれない。他にも、外国との交渉、特に冷戦期においては、中国との交渉に対して、否定的であったことなどもあるかもしれない。そもそも、如何にして、責任主体としての日本人を構築するのかは、疑問ではあるが、外国との交渉の中で、形作られることは十分に考えられる。その点が不十分であったのだろう。  

ただ、今日においては、飯田下伊那郡は外国人の割合がグローバリゼーション及び、中国帰国者などの結果、多いという[3]。この大きな変化を、そこに住む人たちは、どのように受け止めているのだろうか。この状況を上手く使うことができるかどうかは、そこに住む人たちの努力によるだろう。しかし、アジア・太平洋戦争の思わぬ副産物としての地域のグローバル化は大きなチャンスであり、他者との交渉の中で、責任主体としての日本人を自覚する契機になるかもしれない。そして、今日のグローバルな問題を日本だけでなく、それを越えた主体として考えることができる大きな契機にもなるかもしれない。このことは、日本人が戦前に犯した自国だけの利益を追求する姿勢を変え、他者の利益だけでなく、他者と自己も含めた新しい主体の利益を守ろうとすることにつながる可能性が十分にあるのではないか。

戦後世代として、これまでの議論を踏まえると同時に、これからは戦争当事者がいなくなるという変化を受けて、何かしらの議論の組み換えが必要なのは明らかであろう。具体的にどうすればいいかということは、不明であるが、他者との交渉が重要になることは間違いないことであろう。ボーダレスな社会の中で多くの他者との交渉を通じて、考えを深めることの必要性を感じる。そして、飯田下伊那郡には、その新たな時代の可能性が、アジア・太平洋戦争の思わぬ副産物として、認識されるようになってきた。この新たな変化(外国人の割合の増加)を十分に認識することは、過去の問題を深く認識することにもつながるであろう。この繋がりを十分に認識することは、これから、非常に重要になることは間違いないのではないか。これが、過去をきちんと学ぶということにもなるのではないか。

[1] 『満州移民』p.224「開拓民は、被害者でもあり加害者でもある、また被害者であるがゆえに加害者となる、という満州開拓の重層的関係を理解することは、地域社会ではまだまだ困難であった」
[2] 『状況』3・4月号、p.16-17
[3] 『満州移民』p.245


●卒論報告 第1回
「問題関心と構想」
問題関心:
 
「冷戦」の崩壊以後、西側陣営の自由主義経済が世界中を覆うようになった。この大きな変化の中で、日本も大きく変化することを求められてきた。具体的には、橋本6大改革から、そして小泉構造改革へと、日本は大きく変貌を遂げつつある。この改革は、もちろん、国内から求められた部分はあるであろうが、しかし、海外からの圧力によって、国内市場を開けさせられた側面もあるであろう。
 
今日では、その構造改革の結果、不利益を被っていると考えられる人たちが日本の中においても、相当数いることが考えられる。そして、国家による何かしらの「救済措置」が必要であると、唱えられている。


明らかに国家には、何かしら、「国民」に対して、政策を行うことが必要であるし、その構造改革においても、そのあたりの負の側面を十分に補う政策を行う必要があったのではないだろうか。
 
「グローバリゼーション」とは何かは、まだ不明であるが、少なくとも、巨大な資本とかが、国境を越えて、国境をぶっ壊して、世界を均質な市場にして、そこで利益を生み出そうとする側面があることは考えられる。そこでは、エコノミーの論理が優先し、福祉などの面が失われ、多くの人々が苦しい境遇に貶められるということは十分に考えられる。

やはり、国家はグローバリゼーションの浸透に対して、何かしらの形で、抑制するような政策が必要ではないのだろうか。そして、グローバリゼーションという巨大な流れに対して、抵抗できる、今考えられる主体は(もちろん国家だけではないが)、その有効性実効性も考えると、国家しかないのではないか。
もちろん、単なる、自国内の自己最適を諮るだけではダメだということは明らかではあるが、ただし、上でも確認したが、国家に何かしらの役割があるということも明らかであろう。つまり、これからのグローバリゼーションの中で、国家は如何にして、あるべきなのかについて、考えたい。主に、日本について考える。

そこで、国家の役割について考えるときに、国家が国際社会との接触するときに、どのようなことが起きたのかについて考えていきたい。具体的には、日本の経済自由化への過程において、どのような国内対立、そして政策が成され、その結果はどうであったのかについて見ていきたい。

これは、最近でも、2007年の5月に改正会社法が施行されるにあたって、その前後においては、大きな外資恐怖論が、日本社会で起きた[1]。三角合併の解禁によって、外資による日本買いが増えると考えたからであろう。

同じようなことは、戦後日本の経済が成長した60年代にも起きた。この卒論では、60年代の日本と国際社会が接触するときについて、主に、それを受けての経済政策や、その政治過程について見ていき、日本が如何にして、国際社会・グローバリゼーションに対応していくのかについて考えていきたい。

構想:
日本の高度成長が進むにつれて、世界からの貿易・為替の自由化が求められるようになった。日本は、1963年にGATT12条の権利(国際収支上の理由による輸入制限維持の権利)を放棄し、GATT11条国に移行した。また、64年には、IMF8条国に移行し、同時に、OECDにも加盟した。その結果、日本は貿易外経常取引や国際資本移動の面で、これを制限することが原則として許されなくなった。

このように、日本経済の国際化が進められようとしたときに、日本国内において、特に、政府・財界においては、強い危機意識があったという[2]。この表れとしては、新日本製鉄成立のような大型合併が進められたりした。また、通産省も資本自由化への対策は不可欠だと考えていた。通産省では、海外の寡占的大企業が貿易自由化によって、日本市場に参入すれば、規模の小さい日本企業は競争できずに、合併吸収されると予測されていた。

ところが、政府の直接介入は徐々に後退せざるを得なかった。それは、商品・技術の貿易に関して、政府が直接的に介入する手段は、1960年代に効力を失っていったからである。例えば、外為法に基づく技術導入の認可も次第に緩和され、1959年には技術導入の認可基準がポジティブ・リストからネガティブ・リストに切り替えられ、日本経済に悪影響がないかぎり、認可されることになった。68年には、技術導入の自由化が行われた。

ただし、政府の役割が後退していたのではあるが、何もしなかったわけではない。それは、60年代においては、エレクトロニクスのような戦略的な部門の自由化はできるだけ先送りし、国内の幼稚産業が発展する時間を産業政策が作り出す役割は果たした。
 
しかし、こうした政府の介入に対して、反対する意見も合った。具体的には、特定産業進行臨時措置法[3]に関する議論においてなされた。この法案を通そうとする通産省に対して、銀行や、また本田宗一郎などは反対した。

この経済の自由化に向けての過程を以下の視点について、見ていきたい。

・経済自由化に対して、日本国内において、どのような反応があったのか。国内世論や、政治家、財界(経団連とか、その他の経営者たち)、学者またテクノクラート(通産省を主に)の反応について。

・大きく分けて、「保護主義」と「国際主義」の2つの考えが、日本の経済自由化において、あったと考えられるが、それぞれ、どのような考えに基づいて、成り立っているのか。その経済合理性や、日本経済思想的な観点、そのアクターの世界観とかについて。

・上の2つの考えは、どのような観点において、対立していたのか。また、その対立から、どのようにして、妥協して、政策として行われるようになったのかについての政治過程について。

・日本の経済政策においても、アメリカの政策に大きく制約されていたのではないかと考えられる。当時の、アメリカの日本に対する通商政策はどのようなものであったのかについて。

・実際に、どのような政策が行われたのか。どのようにして国際社会に適応しようとしたのか。そして、その結果。

・戦後日本経済において、1960年代の経済自由化の意味について。
・日本が国際社会に「西側の一員」として参入していくということについて。
・日本の通産省の経済政策の変遷について。また、戦前の統制官僚とのつながりや、現代とのつながり。


既に読んだ本リスト:
1.菊池信輝『財界とは何か』平凡社、2005年。
2.宮崎勇『証言戦後日本経済』岩波書店、2005年。
3.森武麿他著『現代日本経済史』有斐閣、1994年。

文献リスト(これから読む本):
1.伊藤元重『産業政策の経済分析』東京大学出版会、1988年。
2.猪木武徳『経済思想』岩波書店、1987年。
3.内田公三『経団連と日本経済の50年』日本経済新聞社、1996年。
4.梅村又次他編『日本経済史』岩波書店、1988年-1990年。
5.岡崎哲二、奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年。
6.大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年。
7.大嶽秀夫『高度成長期の政治学』東京大学出版会、1999年。
8.清川雪彦『日本の経済発展と技術普及』東洋経済新報社、1995年。
9.小宮隆太郎他編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年。
10.田代洋一他編『現代の経済政策』有斐閣、2006年。
11.通商産業省、通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』通商産業調査会
1989年-1994年。
12.テッサ・モーリス・鈴木著『日本の経済思想』岩波書店、1991年。
13.中村政則『経済発展と民主主義』岩波書店、1993年。
14.三輪芳朗『政府の能力』有斐閣、1998年。
15.橋本寿郎『戦後日本経済の成長構造』有斐閣、2001年。
16.橋本寿郎他著『現代日本経済』有斐閣、1998年。
17.柳川隆、川濱昇編『競争の戦略と政策』有斐閣、2006年。

以上

[1] 「三角合併、きょう解禁『黒船』に揺れる企業」『毎日新聞』2007年5月1日の朝刊「三角合併が解禁されたからといって、5月以降に外資による日本企業買収が激増するかというと、その可能性は小さい。買収に詳しい壇柔正弁護士は『三角合併はあくまで当事者が合併に合意したうえで使う手法。嫌がる相手を無理やり買収する敵対的買収とは違う話だ』と指摘する。とはいえ、外資が穏やかに新制度を活用するという見方は経済界では少数派だけに、警戒を崩さない。安倍政権は対日直接投資倍増を公約しているため、民間企業には『政府は国内企業を本気で助けてくれないのでは』(メーカー幹部)との不信感も渦巻く。各社とも外資勢の動向に神経をとがらせている」

[2] 橋本『現代日本経済』p.85

[3] この特徴は、官民協調方式によって、石油化学・自動車などの成長産業を対象として産業再編を行い、銀行融資を義務づけるという点にあった。1962年に始めて上程された特振法は、結局、成立しなかった。

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