2007/12/04

映画渇望症・・・涙・・・。。。

表題「『禁断の惑星』と『激突』を素材として、人間と文明との関連について、各自の意見を述べよ」


社会の「変化」の早さ・大きさは、私たちに、少しの戸惑いと、大きな希望を抱かせる。インターネットの普及・発展は、私たちの生活を大きく「変化」させ、「IT革命」とさえ、呼ばれている。その一つ一つの「変化」に対して、私たちは、影響を受けざるを得ない立場にある。もちろん、その「変化」を拒否することも出来るのかもしれない。しかし、その場合、例えば、文明史のレジュメを入手することが出来なくなるなどの、不利益を被ることが考えられる。実際に、「変化」に対応できていないということで、大きなコストが発生することになるだろう。つまり、その「変化」は、私たちに、受け入れさせるようなメカニズムを有していると考えてもいいであろう。


人類の歴史を考えた時に、そのような「変化」は、幾度も起きてきたし、これからも、起き続けるであろう。このような「変化」に対して、敏感であるために、そして、その脅威を相対化するという意味でも、人類の「変化」の歴史を学ぶ必要があるのであろう。


ここまでに、何度か使ってきた「変化」という言葉の説明を行いたい。その前に、「文明」についての定義をする必要があろう。「文明」についての定義については、様々な見解があるそうである。よって、ここでは、一先ず、第2講の資料のp.1に従って、「文明」について、「グローバル(大域的)、『野蛮』の対極、都市的・技術的普遍性」とすることにする。そして、「文化」についても、「ローカル(局所的)、風土的、生活と伝統、個別具体的習慣」とする。以上のように、言葉を用意した上で、「変化」について考えると、これは、「文明」内部での構成要素の発展や移り変わりを表していると、ここでは考えることにしよう。


結局、私たちは、何かしらの「文明」空間にいて、その内部の構成要素の発展や移り変わりに影響を受け、それに対して、戸惑いや、希望を抱くようになっているのである。もちろん、私たちは、いつも受動的だというわけではなくて、積極的に、その「変化」を作り出すこともある。例えば、企業などの活動におけるイノベーションは、それに携わる人々からすれば能動的なものである。明らかではあるが、私たちは、その「文明」空間の下で、大きな利益を得ている。それは、私たちの生活を振り返った時に、その生活を豊かにしてくれている財が、その多くが「文明」によるものであることからも、確かであろう。これまた明らかであるが、その「文明」による財が、何かしらの悪意や間違いなどによって、私たちに対して大きなコストをもたらすことがある。よって、生活が豊かになる面がある一面で、それとともに、何かしらかのリスクを背負うことになっている。これが、「文明」のもとで、人間が取り組んでいかなければ行けない課題であろう。如何にして、その利益を最大化して、そして、そのリスクを管理していていくのか。これは、「文明」のもとで、生活していく人類にとって、非常に重要な問題であろう。これについて、以下で、『禁断の惑星』と『激突』を素材にしながら、考えていくことにする。


まずは、2本の映画をもとに、「文明」における利益について確認していきたい。『禁断の惑星』では、ロビーと呼ばれるロボットがいて、その主人たちの生活を支えていた。例えば、成分を調べるだけで、お酒を作ることが出来たり、あと、服や宝石のネックレスを作ったり、そして、家事全般をこなしたりしていた。家事からの解放というのが、これまでの「文明」における「変化」の方向性であることを考えると、その一つの到達点として、そのロボットを見ることが出来るのかもしれない。その時、私たちは、完全に家事から解放されるのである。次に、『衝突』から見ることができる「文明」からの利益について見る。この映画の場合、中心は、車そしてトラックである。これらは、私たちの生活に欠かせることが出来ない道具になっている。これまでは歩いていっていた所を、車を利用することで、時間を短縮することが出来る。また、荷物を積み上げることによって、人間が運べる以上のものを輸送できるようになった。特に、交通手段の無い所では、車やトラックからの利益は大きい。以上のように、映画を見た中でも、「文明」からの利益は、大きいと言うことが出来るだろう。


次は、そのリスクについて見ていきたい。『禁断の惑星』では、その「文明」が生み出してしまった「イドの怪物」が描かれていた。これは、人間の深層心理が機械装置を通して生み出していったものである。この機械装置も、当初は、社会の利益などの別の目的のために使われていたことが考えられる。そうすると、『禁断の惑星』の「イドの怪物」は、悪意があった場合に、人間に大きな損害を与えるということを象徴していると見ることが出来る。それを、もっと、具体的に描いていたのが、『衝突』であろう。上でも、確認したように、車やトラックは、私たちに大きな利益をもたらしてくれる。しかし、悪意があった場合や使い方を間違った場合に、車やトラックで人に危害を加えるということが想定される。その時、大きな利益を受けている裏返しの大きな力によって、損害を被ることは、明白である。映画では、悪意のある人によって、車の運転手が、トラックでひき殺されるそうなるという話が描かれていた。トラックの運転手が、どのような人物で、どのような意図を持って行動しているのかが分からないので、車の運転手が持つ恐怖心は最高潮に達していた。この映画では、トラックによって、人と人との間を直接ではなく、間接に接触することが出来るようになった結果、悪意のある人々にとっては、より、その行動を実際に移しやすい環境にあるのかもしれない。結局、誤って損害を被るリスクと、悪意のある人が、そのような行動を行いやすいというリスクというのが、存在しているのではないか。つまり、そのような、リスクを抱えながら、「文明」からの利益を私たちは享受していると言うことが出来るのではないか。


以上、「文明」からの利益という側面と、リスクという側面を確認してきた。これを踏まえて、如何にして、私たちは、このような状況に対処していくのか。『禁断の惑星』では、アルテアの高度な「文明」を、どのようにして管理すべきなのかという場面があった。モービアス博士は、知能の低い人々に、この「文明」を伝えると、それを悪用される危険性があるとして、知能の高い自分が管理することが正しいと言っていた。他方、船長は、連邦政府に、預けるべきだと言っていた。この映画では、最終的に、モービアス博士の「イドの怪物」が暴力的に暴れだしたことからも、それを一人の知能の高い人々に預ける危険性が描かれている。ただし、他方で、アルテアの高度な「文明」も、結局は、自分たち自身で、それを破壊してしまったということからも、「民主的」に管理するからといって、必ずしも、安全が確保されないということが示されていた。


この問題は、統治制度の問題に帰着できると考えられるが、ここでは、私見を提示するだけにとどめておくことにする。知能の高い少数者による管理だと、情報入手コストが掛かりすぎるために、現実的ではないであろう。また、上のような暴走も考えられる。したがって、「民主的」管理が、より望ましい。もちろん、これにも問題はある。例えば、悪意のある人々が、他人に被害を与えることが考えられる。このような行為が取り締まられていることは明らかではあるが、このような行為を完全になくすことは出来ない。つまり、利益とリスクを背負って、私たちは生きなければ行けないことになる。もちろん、全ての人が善意に基づいて行動していると期待したいが、現実は、なかなかそうではなさそうである。
 

「文明」による利益とリスク、そして、それを如何にして対処するのかについて見てきた。結論としては、利益とリスクを背負いながら、私たちは生活しなければ行けないというものである。しかし、私たち一人一人の努力によって「変化」を起こし、その中で、「文明」のリスクを低減することが出来るであろう。負の側面を「現実」として受け入れるのではなくて、それを「変化」させていくことが必要なのではないか。「文明」という、とてつもなく大きなものの前で立ち止まるのではなくて、それを一人一人が「変化」させていけると意識を変えることが求められている。

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