2007/12/14

オフ突入。少し休む・・・。

卒論報告

2007年12月14日
芋月俊博
□卒論の構成
1.はじめに[1][2]
 経済大国日本の基点として、貿易・為替の自由化を見ることが出来るのではないか。
2.統計で見る日本経済の発展[3]
3.貿易・為替の自由化への過程[4]
4.貿易・為替の自由化とは何か
5.その結果(国内の産業構造の転換や、生産性の上昇による国際競争力の強化とか)
①日本の農業[5]
 ②大企業[6]
 ③中小企業[7]
 ④エネルギー[8]
 ⑤都市
 ⑥地方
 ⑦国民意識[9]
 ⑧文化
 ⑨海外との関係
  ・・・
6.結論
高度経済成長期における、貿易・為替の自由化は、どのように、日本を変えていったのか。経済大国としての日本が、どのようにして作り上げられていったのか?また、高度成長と、貿易・為替の自由化との関係について。貿易・為替の自由化を、歴史上に、どのように位置づけるのか?

□報告
3.貿易・為替の自由化への過程
 
①貿易為替の自由化の背景
日本の高度成長が進むにつれ、しだいに欧米からの貿易為替の自由化要求が高まった。まず、日本の戦後の1959年までの経済発展を貿易に焦点を当てながら見ていきたい。

輸出額について見た時に、1953年時点においては13億ドルであったのが、56年には25億ドル、59年には59億ドルと増えていった[10]。53年の段階と比べて、4.5倍もの増加が見られた。しかし、59年における他国と比較した場合に、まだ、この段階では、差が大きいのは明らかである。アメリカは日本の約5倍、イギリスは約3倍、西ドイツは約3倍であった。
 次に、日本の貿易構造について見ていきたい。1950年の段階においては、総輸出額に占める重化学品の割合は30.4%、その他は69.6%であった[11]。そして、1959年には、重化学品の割合は39.8%、その他は60.2%であった。確かに、貿易構造における高度化は進んでいるのは認められるのが、ただし、その割合は十分ではないということができそうである。
 以上、見てきたように、確かに、高度成長が進むにつれ、日本の輸出額は増え、また、貿易構造の高度は進んでいったが、この段階での貿易自由化は、なかなか厳しいものがあったのではないかと、推察される[12]
 では、日本がこのような経済状況の中で、どうして、貿易為替の自由化が求められていったのか。その背景[13]について、見ていきたい。

 まず1つ目の背景としては、戦後圧倒的な経済力を有し、その経済力で、西側世界を支えていたアメリカが、自由化要求を始めたということがあった。それは、西欧や日本の経済が発展するにつれて、アメリカの経済的地位は低下し、これまでのように経済援助や海外軍事支出を行うことができなくなったということがあった。そして、その「ドル散布」を貿易黒字でカバーしきれなくなり、1958年頃から慢性的なドル流出に悩まされるようになった。しかも、59年には日本の対米輸出が大幅に増加して、対米貿易収支が戦後初めて輸出超過を記録したということがあった。
 2つ目の背景としては、西欧諸国が1958年にEECを結成するとともに、自国通貨とドルの交換性を回復し、為替取引の正常化に踏み出し、対米差別輸入制限を大幅に撤廃するということがあった。このことも日本の貿易・為替自由化を促す一因であった。
 
しかし、貿易自由化の動きは、国外からだけではなかった。日本の国内においても、いち早く時代の変化を見定めて、それに素早く適応していこうという考えもあった。『戦後産業史への証言』[14]における今井[15]の話によると、1958年10月あたりの話として「・・・国内には割り当てによる弊害問題があるし、外には貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本精神に基づく動きが出来てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろう」と考えていた人もいたそうだ。
 そして、西ドイツが8条国への移行を宣言し、イギリスも宣言し、そしてフランスも間もなく行われるようになるだろう。アメリカ、カナダはすでに8条国になっている。つまり、欧州の国々では、次第に為替管理、輸入宣言を撤廃していく中で、必ずや日本にも、その波が押し寄せてくることは避けられない状況であるとの認識がもたれるようになった。そして、今井は当時、通産大臣だった池田勇人にレクチャーをして、賛同を得たらしい。
 このような国内における認識にもとで、原綿・原毛[16]を中心とする輸入自由化促進が発表[17]され、そして、1960年1月には政府は貿易自由化促進閣僚会議を設けることになる。つづいて、3月に通産省が、貿易・為替の自由化の基本方針を決定し、6月に貿易為替自由化計画大綱が発表されることになった。
 以上のように、国外からの圧力があったようであるが、それ以前に、日本の国内において、その国外における変化に対して、敏感に反応して対策を講じようとした人たちがいた。そして、結果として政府の政策となり、60年6月の貿易為替自由化計画大綱という形に至った。

②貿易自由化の「積極派」・「消極派」の意見について

ここでは、貿易自由化に対する「積極派」「消極派」の考えについて見ていきたい。まだ、十分に調べられていないので、今回は、『戦後産業史への証言』にある佐橋滋および今井善衛の「証言」を使って、整理していきたい。ちなみに、この両者は、昭和30年代において、貿易自由化に対して消極または積極の派閥の中心的な存在であった。

まずは、「消極派」に属していた佐橋の考えに見ていこう。まずは、貿易自由化の考えについて見ていく。「私の考えは、基本的には貿易自由化は当然進めるべきだ、しかし、ヤミクモに走られてはかなわない。当時、戦後10年で一応経済成長はなし遂げられたけれども、日本のそれぞれの産業、業種の基盤は世界的に見て強い、堅実だという認識は持っていなかった。日本という国は貿易のサヤで生きていく貿易立国です。いってみれば原料を輸入して製品にして輸出してそのサヤで生きていく以外にもう手のない国でしてね。産業が貿易の自由化によって壊滅的な打撃を受けたら、日本はもう立つ瀬がない。だから、貿易自由化に対抗するには、どうしても産業構造体質の改善をやらなければならないし、それがある程度メドのつくまで簡単に貿易の自由化をしてもらっては困る。私は準じに自由化をやっていく。期限をつけて何年後にはどうするというメドをつけて、その間に少し荒療治ではあっても、産業界は体質を強めるための努力をせよ。こういう段取りで貿易の自由化に対抗できるようにしたらどうか、という考え方」[18]だそうだ。

だから、そのため、池田通産大臣が進める自由化の動きに対して反対することになった。それは、軽工業の自由化と、重工業の自由化を一緒の次元で考えている点に問題があるということであった。例えば、自動車業界に関しては「輸入自由化すると、日本の自動車メーカーはつぶれてしまう」という認識を持っていた[19]。そして、「当時、日本経済発展の柱は、かつての繊維から重化学工業へ移ってきているし、その重化学工業がこれから伸びようとしているところを、性急な自由化でもみくちゃにされたのでは、日本経済の伸びはないという使命感」を持っていたそうである。[20]

自由化を推し進めようとした政治家池田の路線に関しては「とにかく政治家の考え方には、『なんとかなる方式』があるわけです。追い込めば日本の経済の底力でなんとか対応する。安全、安全とブレーキを踏んでいるよりは、オカイコぐるみから出して、風の中へ放り出したほうが早いと考えておられたようですね」と、厳しく評されている。[21]

 次に、貿易自由化「積極派」の今井氏の考えについて見ていきたい。まず、インタヴュアーの次のような発言があった。「・・・担当されている局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。」そして、今井さんの発言は「それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、なるようにしかならないという見通しが、われわれは先に立ちますからね」とある[22]。これは、上で見た佐橋氏の批判する池田氏の考えに通呈するものがあるように思われる。

 自動車業界に関しても「業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組み立て工場を作るかもしれないと、外資の進出を非常に恐れていました。」とある。そして、その外資恐怖症の原因について次のように言っている。「当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、『そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もう飲まざるを得ない、妥協せざるを得ない』という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ず
うっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考えです」[23]のようだ。

その考えの基盤には、日本の産業に対する次のような考えがあったそうだ。インタヴュアーの発言として「貿易の自由化を一方的に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって。業界の引き締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる。繊維なんかはそんなことしなくてもよかったわけですが、他の産業についてはそういう考えはなかったですか。」とある。それに対して、今井さんは「それはありましたね。・・・その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自体も自信がなかったのでしょうね。それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任ではなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の法はやっぱりミクロの問題として、また自分たちの問題として真剣に考えています。あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような態度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどのように見ていたんだという気もしますね。」[24]とのことです。

 このような見方の違いは、どのような所に起因するのだろうか。これについては、それぞれの価値観に起因しているというのが、現段階での考えである[25]

 ただ、池田勇人も、政権についてからは、その中間の政策を進めていくことになる[26]。池田は、首相就任後の新政策への抱負を次のように語った。インタビュアーが「貿易為替の自由化から、今後国際収支を心配するむきがあるがどうか」との質問に対して、池田は「とりこし苦労する必要はない。24年、私が大蔵大臣になったとき、手持ち外貨はゼロであった。それがいま15億6000万ドルもある。外貨準備の手持ちは潤沢で心配ない。輸入原材料がふえて外貨が減っても、綿花・石油・羊毛の在庫が増えれば心配する必要はない。自由化して輸入が増えるようでは、なんにもならない。自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段である。このごろ輸入がふえているのは機械類である。これは将来の輸出の準備をしているのだから、心配はいらない」と、貿易自由化への不安は無いと答えた。また、インタビュアーは「貿易自由化で安い商品が外国から流れこむという心配について、首相の考えを聞きたい」と質問した。それに対して、池田首相は「外国から安い商品が流れこむまえにこれを防ぐ準備をしてから、自由化をする。日本の商品が外国商品とくらべて、どうしても安くならないものについては、関税などで対処する。ガットでも除外例が認められているのだから、これを適用してもらうようにすればよい」と、保護的措置を講じつつ、自由化を進めていくことが示された。

 以上のように、考えの上では、様々な、対立があったようだが、実際においては、その中間のような政策が採られていったことが分かる。

③「貿易・為替自由化計画大綱」
 1960年6月に、政府は「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定した[27]。この大綱はまず、「資源に乏しく人口の多いわが国経済が今後長期にわたって発展するためには、世界の経済交流の進展に即応しつつ、海外諸国との自由な交易を一層拡大してゆくことが不可欠の要因であると考えられるので、自由化を極力推進することは、世界経済の発展のための国際的要請たるのみならず、わが国経済自体にとって、きわめて重要な課題となっている」と述べ、自由化に前向きの姿勢を示した。そして、自由化の国内経済へのメリットとしては、「・・・貿易および為替の制限を積極的に緩和し、経済的合理性に即した企業の自主的な創意と工夫を一層重視することは、わが国経済に対して多くの好まし効果を期待することができる。すなわち、自由化により、従来の管理統制に伴う非能率や不合理性は排除され、低廉な海外原材料等の自由な入手が一層容易となり、産業のコストは引き下げられ、企業は国際的水準における合理化努力を要請されるなど、自由化は経済資源の一層効率的な利用を可能ならしめ、経済の体質改善を促進するとともに、広く国民の生活内容の向上に寄与し、もってわが国全体の利益を増進するものである」と言っている。

 もちろん、メリットだけでなく、問題点があるということも指摘されている。「しかしながら、実際に自由化を促進するに当たっては、まず長年にわたり封鎖的な経済の下で形成された産業経済に及ぼす過渡的な影響に十分考慮を払う必要がある。またわが国経済は西欧諸国とは異なり、過剰就業とこれに伴う農林漁業における零細経営および広範な分野における中小企業の存在などの諸分野が包蔵し、また育成過程にある産業や企業の経営、技術上の弱点など多くの問題を有している上に、わが国を取り巻く国際環境についても、欧州共同市場のような長期的に安定した協力経済圏を有していないこと、およびわが国に対してなお差別的な輸入制限措置[28]が取られている例が多いことなどについて注意する必要がある」とある[29]

 そして、この大綱において、輸入自由化のタイムテーブルが明らかにされた。「本計画を推進することにより、昭和35年4月現在において40%であった自由化率を、3年後においてはおおむね80%、石油、石炭を自由化した場合にはおおむね90%に引き上げることを目途とする」とされた。
 また、自由化に伴なう経済政策の基本的方針と対策[30]として、以下、8点が出された。

1. 経済の安定を保持しつつ高度成長を図る

2. 雇用の拡大と流動性向上に努める

3. 輸出の拡大と経済協力の推進を図る

4. 自由化の積極的利点を生かしつつ産業構造の高度化を推進する

5. 農林漁業の体質改善および中小企業の近代化に努める

6. 企業の体質改善のための環境整備に努める

7. 産業秩序の整備を図る

8. 関税率および制度を改正する

とある。自由化の流れを積極的に受け入れて、日本の近代化を推進していこうという姿勢が見える。

 商品別の自由化計画は次のようであった[31]。①早期に自由化する(おおむね1年以内)②近い将来に自由化する(おおむね約3年以内に自由化する)③時日をかけて自由化する(現状の判断では3年以内に自由化するのはむずかしいが、それ以後近い将来可能なもの)④自由化の困難なもの、の4つのグループに分けられ、弾力的に運用されることになった。

 以上、貿易自由化に対する日本政府の姿勢について見てきた。積極的な姿勢を示し、そして、そのメリットを強調するも、その問題点も指摘されるなど、当時において、「積極派」「消極派」で、対立していたことが推察される。

4.貿易・為替の自由化とは何か
 
①為替・貿易の自由化とは?
貿易為替の自由化とは何かということについて見ていきたい。貿易為替の自由化が実施されるまでは、輸入品は対象品目ごとに必要な外貨を通産省が割り当てる「輸入割り当て制」[32]、輸入申請とともに外貨の割り当てを自動的に受ける「自動割り当て制」[33]、さらに自由な輸入が認められている「自動承認制」[34]に区分されていた。自由化政策とは、具体的には「輸入割り当て制」、「自動割り当て制」から「自動承認制」に転換していこうとするものであった。

②貿易・為替の自由化の推移
自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[35]。1960年4月において、
41%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%
となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われ、工業製品については、比較
的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは自由化の
直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に与えた影
響は、それほど大きくはなかった。


□参考文献

・社団法人経済団体連合会編『経済団体連合会50年史』経済団体連合会、1991年。
・通商産業省、通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』通商産業調査会1989年-1994年。
・エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言』毎日新聞社、1977年。
・エコノミスト編集部『高度成長期への証言』日本経済評論社、1999年。
・経済同友会『経済同友会50年のあゆみ』経済同友会、1997年。
・山澤逸平他著『貿易と国際収支』東洋経済新報社、1979年。
・毎日新聞社編『一億人の昭和史 高度成長の軌跡』毎日新聞社、1976年。
・毎日新聞社『高度成長』毎日新聞社、1984年。
・朝日新聞社編『朝日新聞に見る日本の歩み 高度成長への信仰』朝日新聞社、1977年。
・大蔵省財政史室編『昭和財政史―昭和27―48年度』全20巻、東洋経済新報社、1990-2000年。
・経済企画庁編『戦後日本経済の軌跡 経済企画庁50年史』大蔵省印刷局、1997年。
・同編『経済白書 昭和39年度版』大蔵省印刷局、1964年。
・マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年。
・『毎日新聞』
・通産業省『通商白書 総論1964年』通商産業調査会、1964年。
・通商産業省『通商白書 総論1960年』通商産業調査会、1960年。
・土門拳『ドキュメント日本 1935年―1967』小学館、1995年。
・通商産業省編『商工政策史 10巻』商工政策史刊行会、1961年-85年。
・太平洋戦争研究会『GHQの見たニッポン』株式会社世界文化社、2007年。
・日本放送協会放送世論調査所『図説戦後世論史 第2版』日本放送出版会、1982年。
・三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年。
・東京都写真美術館編『昭和の風景』新潮社、2007年。
・赤瀬川原平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波書店、2007年。
・内田公三『経団連と日本経済の50年』日本経済新聞社、1996年。
・マーク・フューステル編『日本の「自画像」』岩波書店、2004年。

辞書・辞典:
舘龍一郎編集代表『金融辞典』東洋経済新報社、1994年。


本・論文[38]
□青木昌彦『日本経済の制度分析』筑摩書房、1992年。
□同『比較制度分析に向けて』NTT出版、2003年。
■赤澤史朗「所得倍増計画と高度経済成長」歴史学研究会編『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
■同「昇りつめた高度成長」歴史学研究会編『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
○浅井良夫『戦後改革と民主主義』吉川弘文館、2001年。
■同「資本自由化と国際化への対応」中村政則編『日本の近代と資本主義』東京大学出版会、2002年。
□雨宮昭一『戦時戦後体制論』岩波書店、1997年。
■同「1950年代の社会」歴史学研究会編『日本 同時代史3』青木書店、1990年。
■荒川章二「日本型大衆社会の成立と文化の変容」『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
■アンドルー・ゴードン著、森谷文昭訳『日本の200年上・下』みすず書房、2006年。
○同編『歴史としての戦後日本上・下』みすず書房、2001年。
■五百旗頭真編『戦後日本外外交史』有斐閣、2006年。
■伊藤正直「高度成長の構造」渡辺治他編『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、2004年。
■伊藤昌哉『池田勇人とその時代』朝日新聞社、1985年。□伊藤元重『産業政策の経済分析』東京大学出版会、1988年。□猪木武徳『経済思想』岩波書店、1987年。○猪木武徳・安場保吉編『日本経済史8 高度成長』岩波書店、1989年。
□色川大吉『昭和史世相篇』小学館、1990年。
□大門正克他著『戦後経験を生きる』吉川弘文館、2003年。
□大瀧雅之『景気循環の読み方』筑摩書房、2001年。□大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年。□同『高度成長期の政治学』東京大学出版会、1999年。□岡崎哲二、奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年。
□岡崎哲二『コア・テキスト経済史』新世社、2005年。
○香西泰『高度成長の時代』日本評論社、1981年。
■同「高度成長への出発」中村隆英編『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』岩波書店、1989年。
■金子勝「『高度成長』と国民生活」『講座日本歴史12 現代2』東京大学出版会、1985年。
□上川孝夫、矢後和彦『国際金融史』有斐閣、2007年。
■神野直彦『地域再生の経済学』中央公論新社、2002年。
□金森久雄編『貿易と国際収支』日本経済新聞社、1970年。
■菊池信輝『財界とは何か』平凡社、2005年。
□清川雪彦『日本の経済発展と技術普及』東洋経済新報社、1995年。
○高度成長期を考える会編『高度成長と日本人』日本エディタースクール出版部、1985年。
□小浜祐久『戦後日本の産業発展』日本評論社、2001年。□小宮隆太郎他編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年。
□柴垣和夫「産業構造の変化」東京大学社会学研究所編『戦後改革 8』東京大学出版会、1978年。■城山三郎『官僚たちの夏』新潮社、1980年。
□菅孝行『高度成長の社会史』農村漁村文化協会、1987年。
■鈴木恒夫「戦後日本経済システムと『過当競争』」中村政則編『近現代日本の新視点』吉川弘文館、2000年。
○鈴木良隆『ビジネスの歴史』有斐閣、2004年。
□同『MBAのための日本経営史』有斐閣、2007年。
□スーザン・ストレンジ著、櫻井公人訳『国家の退場』岩波書店、1998年。
□田代洋一他編『現代の経済政策』有斐閣、2006年。
□舘龍一郎『日本の経済』東京大学出版会、1991年。□ダニエル・I・沖本著、渡辺訳『通産省とハイテク産業』サイマル出版会、1991年。
□チャーマーズ・ジョンソン著、矢野俊比古監訳『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニ カ、1982年。
□鶴田俊正『戦後日本の産業政策』日本経済新聞社、1982年。□寺西重朗『日本の経済システム』2003年、岩波書店。
□同『日本の経済発展と金融』岩波書店、1982年。
○暉峻衆三『日本の農業150年』有斐閣、2003年。
○中岡哲郎『日本近代技術の形成』朝日出版社、2006年。
■同「技術革新」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
■豊下樽彦『集団的自衛権とは何か』岩波書店、2007年。
□中村章『工場に生きる人々』学陽書房、1982年。■中村政則『戦後史』岩波書店、2005年。
■同「1950年-1960年代の日本」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。■中村隆英・宮崎正康「1950年代の産業政策」中村・宮崎編『岸信介政権と高度成長』2003  年、東洋経済新報社。
■中村隆英「日本における産業政策の特色と評価」『週刊東洋経済』1974年6月18日臨時 増刊。
□同『日本経済』東京大学出版会、1978年。
□同『昭和史Ⅰ・Ⅱ』東洋経済新報社、1992年。
○中村秀一郎他『現代中小企業史』日本経済新聞社、1981年。
○西川俊作他編『日本経済の200年』日本評論社、1996年。○橋本寿郎『戦後日本経済の成長構造』有斐閣、2001年。○橋本寿郎他著『現代日本経済』有斐閣、1998年。■原朗「戦後50年と日本経済」『年報日本現代史』第1号、1995年。□原朗編『復興期の日本経済』東京大学出版会、2002年。
■日高六郎編『戦後日本を考える』筑摩書房、1986年。
■日高六郎『戦後思想を考える』岩波書店、1980年。
□平井陽一『三池争議』ミネルヴァ書房、2000年。□福川伸次『活力ある産業モデルへの挑戦』日経BP出版センター、2004年。
□講座現代資本主義国家編集委員会編『講座現代資本主義国家 現代資本主義の政治と国家』大月書店、1980年。
□堀内圭子『〈快楽消費〉する社会』中央公論新社、2004年。
□松田廷一『高度成長下の国民生活』中部日本教育文化会、1985年。
○南亮進『日本の経済発展 第3版』東洋経済新報社、2002年。■宮崎勇『証言戦後日本経済』岩波書店、2005年。
□宮崎義一『国民経済の黄昏』朝日新聞社、1995年。
□同『戦後日本の企業集団』日本経済新聞社、1976年。
□宮島英昭『産業政策と企業統治の経済史』有斐閣、2004年。
□三輪芳朗『政府の能力』有斐閣、1998年。
■三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年。
□同『産業政策論の誤解』東洋経済新報社、2002年。
□同『日本経済論の誤解』東洋経済新報社、2001年。
□柳川隆、川濱昇編『競争の戦略と政策』有斐閣、2006年。
□村上泰亮『新中間大衆の時代』中央公論社、1984年。■森武麿他著『現代日本経済史』有斐閣、1994年。
■同「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争第1巻』岩波書店、2005年。
□渡辺治編『高度成長と企業社会』吉川弘文館、2004年。
■同「戦後保守支配の構造」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
○山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年。
○山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一『総力戦と現代化』柏書房、1995年。
■吉川洋『高度成長』読売新聞社、1997年。
□同『日本経済とマクロ経済学』東洋経済新報社、1992年。
□同『転換期の日本経済』岩波書店、1999年。
■吉見俊哉『親米と反米』岩波書店、2007年。
■米倉誠一郎『経営革命の構造』岩波書店、1999年。


[1] IMF・GATT体制
 ・世界貿易の拡大(とくに先進工業国間の水平貿易)
 ・割安な固定為替レート
 が、日本にとって、有利な外的要因として働いた。このような世界的な構造についても、調べる必要がある。
[2] 課題の再掲:
・戦後日本の高度経済成長が日本社会を大きく変化させた
 →いかに日本社会を変化させたか?
・ここでは、高度経済成長期の「国際化」に焦点を当てながら、その適応過程が、いかに
日本社会を変化させていったのかについて見る。
・先行研究、特に、経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したの
かについて検証しているものが多い。このような研究の場合、経済成長に焦点が当てら
れていて、その時代に生きた人々への言及が不十分となっている。政府と民間の経済成
長への動きによって、その時代に生きた人々は大きな影響を受けている。もちろん、影
響を与えることもあったであろう。この卒論では、政府と民間そして社会の3つの連関
の中で、高度経済成長を見ていく。
・また、社会史においては、具体的な経済成長に関する言及が少なく、当時、政府や民間
などの行動によって、社会が大きく既定されていたことを考えると、同様に、政府と民
間、社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていくことが必要である。
・以上、この卒論では、「国際化」の過程を、日本の政府・民間と社会、そして外国が、ど
のようにして適応していったのかについて見ていく。
・注意したいこととして、外資を敵視するのではなくて、外資の導入によって、いかに日
本の「近代化」や「現代化」が進んだのかという視点を入れていきたい。
[3] 2007年9月3日の報告
 ・1960年までのGDP比較
 ・一人当たりのGDP
 ・産業構造の高度化
[4] 2007年9月3日の報告。
[5] 2007年10月27日の報告。
[6] 当時の自動車業界などの重工業が、如何にして、後に、競争力を持つようになったのかということを、きちんと調べる必要がある。つまり、貿易自由化の後の経済政策を含めて、企業・政府が如何にして、対応していったのかについて調べてみたい。
『毎日新聞』1960年7月6日朝刊に、次のような記事があった。「自由化対策の一環として、国産品愛用センター、優秀品を検査、奨励」「通産省では貿易自由化対策の一環として国産品愛用運動の展開策の検討をしていたが、5日、機会メーカー代表15人が構成する国産品愛用促進専門委員会を開き国産品愛用センターの設置を決めた。このセンターのねらいは、米国の米国商品優先購入法を参考にして、日本人の船来品崇拝思想を改め、貿易の自由化後も国産品の購入を促進するところにあり・・・」
 7月7日の社説では、その通産省の動きに賛同を示す文章が書かれている。
[7] 『現代中小企業史』によると、重化学工業化に遅れ労働集約型産業の多い中小企業にとって、貿易の自由化はマイナスであったが、結果として、それほど、影響を受けることはなかった。
[8]  石炭から石油(石炭工業の比較劣位・安い輸入石油の登場)へ
   →石油を原料とした産業への転換
     (効率的な輸送技術を持つ)
   →鉱物性燃料への依存度が高まる
    ←石炭を基幹産業とする地方の変化

 日本の場合、産業用燃料である重油や石油化学工業原料としてのナフサの価格の引き下げが、行政介入で行われた一方で、比較的にガソリン・灯油が高いものになった。結果、「日本における乗用車開発では燃費を引き下げることに強いインセンティブが働き、これによって開発された日本車の燃費性能の高さは石油危機後、石油価格が高くなると、日本車の利点になるという、意図せざる成果も生まれた」とする(橋本他『現代日本経済』p.140-141)。
[9] 『毎日新聞』1960年6月30日によると、次のような記述がある。「特別外貨割当を廃止」「海外渡航、自由に」「政府は29日、さきに発表した貿易・為替の自由化計画に基づき本年度上期を限りに外貨資金特別割当制度の廃止を決定、これにともない7月4日から海外渡航および海外駐在員事務所の設置について為替制限措置を大幅に緩和することを発表した。こんごの制限緩和は去る2月の自由化措置に続くもので、この結果、貿易業者、メーカーの渡航費に関する‘輸出実績の3%’というワクはなくなり、一般の渡航についても純粋の観光旅行以外はほとんど自由に認められるようになった」
 このような流れから、学生の海外旅行というのが、活発化していったことが分かる。学生が海外に行くようになって、日本社会が、どのように変化していったのか調べたい。小田実『何でも見てやろう』が参考になるのではないかと、考えている。
[10] 『通商白書 昭和35年』p.150。
[11] 重化学品の中には、機械類・金属品・化学品が含まれる
 その他には、食料品・繊維品・非金属鉱物製品・その他が含まれる。
[12] 『通商白書 昭和35年』p.74。
[13] 『毎日新聞』1960年6月21日は、次のように海外からの貿易自由化の背景を述べている。「一昨年12月、非居住者勘定の交換回復にふみ切った西欧各国は近く居住者についても自由化の方向に進み、イギリス、ベネルックス三国が遅くも秋までに完全自由化となる予定で、その他のフランス、イタリアでも同時かあるいは少し遅れて完全自由化することが見込まれている」「一昨年来外貨準備高が着実に増加、去る5月末14億19百万ドルとこれまでの最高を記録した。昨年一年間の輸入金額に対する外貨準備の割合も37%で、フランスの35%よりも高く、今後も国際収支の不安を招く心配はなくなっている。」「経済成長は世界の水準に比べ、はるかに高く、物価も極めて安定しており、他のアジア・アフリカ諸国とは当然区別されるべきであるとの意見がIMF加盟国間の間でかなり強まっている。」
[14] 『戦後産業史への証言』p.170-171。以下は、この本を参照。
[15] 今井善衛は、昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。当時、いわゆる「民族派」の多かった通産省の中で、少数派であった「国際派」に属していた。城山『官僚たちの夏』の玉木は、今井善衛のことであろう。
[16] 『戦後産業史への証言』p.172-173を参照。(今井)「・・・34年の夏ぐらいには、だいたい自由化の方向が出ていたんですけれども、すぐ明日実行というわけにはいかない。・・・」(今井)「池田さんは自由化の方向で腹を決めていたのですが、政務次官の原田憲さんが繊維業者がたくさんいる大阪(3区)で、原田さんのところに逐一情勢が入ってくる。原田氏から『このまま自由化やったらおれもたまらないし、池田は総理をねらっているんだけど、これもマイナスになる。いずれにせよたいへんなことになる。その前に、ひとつうまくやろうじゃないか』との申し入れがあった。はじめ私どもは、35年のできれば秋ぐらいに原綿の自由化をやりたいと思っていたんですが、原田氏などの意向で、それでは通産大臣があまりにも強引なことをやりすぎると受け取られるので、自由化時期を延ばせといい、私に指示があって、ほとんど発表した実施時期を延ばすよう訂正させられた。大臣のお声がかりという名目でした。」
[17] 『通商産業政策史 6』p.13によると、1959年のガットの東京総会において、日本の貿易自由化の方針が公表されるにいたったとある。
[18] 『戦後産業史への証言』p.135。
[19] 同、p.141。
[20] 同、p.141。
[21] 同、p.145。
[22] 同、p.176。
[23] 『戦後産業史への証言』p.175。
[24] 同、p.177。
[25] 就職活動の一環で、経済産業省の方に、質問をする機会を、何度か持った。その時に、今でも、「民族派」と「国際派」の対立があるのかどうかについて尋ねてみた。結果、無いという答えもあったが、今でもあるという答えもあった。大きなビジョンとして、国際化というのは、共有されているそうである。次の段階で、国際化の原理原則を優先するのか、それとも、日本の会社を応援しようとするのかで、その違いが出てくるとのことであった。特に、後者の「民族派」の考え方は、何か、学問的な基礎があるわけではなく、どちらか言うと、「ナショナリズム」に近いと考えられる。
[26] 伊藤『池田勇人とその時代』p.108-109。
[27] 『通商産業政策史 17』p.376-378。
[28] 『差通商産業政策史 6』p.13によると、イギリスの例が書かれている。「戦後イギリスは、日本に対し厳しい差別的輸入制限を実施しており、また、30年の日本のガット加入に際して、ガット大35条の援用により最恵国待遇の供与を拒否した」とある。
[29] 『通商白書 昭和39年』p.116においても、問題点が指摘されている。日本の所得水準は低く、国富の乏しいこと、農業・中小企業の生産性が低いこと、大企業についても国際的には生産・経営規模が劣るものが多いこと、社会的間接資本が不足していること、消費者物価の上昇傾向が強いことなどなど。
[30]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、p.168。
[31] 『毎日新聞』1960年6月22日。
[32] IQ制
[33] AIQ制
[34] AA制、自由化品目
[35] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[36]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、p.168。
[37] これに先立つ、1960年6月20日に、世界銀行理事の渡辺武は、自由化について、コメントした。その中で、次のようなコメントも含まれていた。「ハガチ―事件、アイク訪日中止など今回の国内の事件は非常に残念で、信用を建直すには大変な努力と時間を必要とするだろう。しかし問題は今後の収拾方法にある。私の意見としては、反米は一向に差支えなく、国論がひとつに統一されている方がむしろ不思議だといえる。世銀・IMFの各国理事の考えも同じだと思う。問題はこうした反対意見が議会という一定の秩序の中で動くかどうかにある。秩序のない国には金を貸す気にならないのは当然である」(『毎日新聞』1060年6月21日)
 安保騒動が、国内的な問題だけではなく、国際的な問題であったということを示す証言であろう。安保騒動などの国内問題を、国際関係を踏まえた上で、評価し、位置づけていく必要がある。
[38] ■:読んだ。 □:読んでいない。 ○:参考にした。

0 件のコメント: