2007/07/03

桃を食べる。うまい

●数学よ、数楽になれ!

最近、数学に悩まされています。そもそも、これをお読みの方は、どうして、僕が数学を勉強しているのかについて、お考えになるかもしれません。

大きな理由としては、数学が僕の学問・研究を進めるにあたって必要だからです。経済学には、数学が絶対に必要です。

僕は主に経済史を専攻しています。簡単に言うと、経済的な見方を中心にした歴史学の一分野です。経済史とか言いつつも、政治史とか社会史とかとも密接に関係しています。

そこで使われる方法としては、これまでの日本経済史(経済史と言っても、いろいろあるので、日本経済史と言いましょう)では、主に、実証主義的な方法を重視してきたように、僕は理解しています。

ところが、最近では、主に2つの方法が台頭してきたそうです。1つ目は、山之内靖先生とかのような議論。2つ目は、青木先生とか岡崎先生の比較制度分析。


(このあたりの方法論とかについての詳細については、森武麿「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争1』を参照。この論文では、1990年代以降の日本の戦時期の社会経済を中心にした研究動向が書かれている)

僕は、この後者の比較制度分析を自分の研究とかに生かせないかと考えていて、実際に、それを理解できるための準備をゆっくりですが、進めています。僕の理解だと、この比較制度分析はミクロ経済学、ゲーム理論をベースに、経済史で扱われてきた様々な現象を切るというものだと考えています。

簡単に言うと、この比較制度分析は、今、経済学の分野の最も輝かしい分野の一つだと考えられます。

そんなわけで、この比較制度分析がどういうものかは不明ですが、新しいもの好きなので、まぁ、飛びつこうとしているという感じです。

そして、数学との関連で言うと、ゲーム理論及びミクロ経済学は、相当に、難解な数学を使うので、そのために、今、僕は数学を勉強しています。ちなみに、今勉強しているのは、幾何学、位相、微分方程式、数理論理学ですね。もちろん、線形代数、微分積分は、できて当りまえの世界です・・・(汗)。

ただ、徐々に、数学も楽しくなってきつつあるので、夏休みに集中的に勉強して、ブレーク・スルーしたいと考えています。

ちなみに、この経済史の世界に殴り込みをかけつつある比較制度分析について、指導教官の森先生は、上の論文で、ボコボコに叩いています。まぁ、僕は若いので、一度は、学ぶ必要があると思うので、勉強しようと思います。


●中曽根内閣とは何だったのか?

今、中曽根内閣について少し調べています。

大きな結論としては、金融マーケットの巨大化(第2次石油ショックなどによるオイルマネーの金融市場への流入が原因か?)による70年代後半以降からの金融資本主義の本格化の中で、日本は、一般的には、96年の橋本6大改革によって、それに対応したと言われています。

アメリカでは、レーガン政権で、またイギリスでは、サッチャー政権下で改革が進められたと考えられます。同じ時期に、日本では中曽根内閣でも改革がされていました。

そこで、96年の本格的な改革の過渡期として、中曽根内閣を位置づけることはできないか。戦後の利権構造に最初に大きなメスを入れることになった政権と位置づけることができるのではないか。そして、それを本格的に推進したのが、橋本内閣であり、先の小泉内閣だったのではないか。

そこで調べるべきは、戦後政治史における中曽根康弘の位置づけ。人脈、派閥、思想とかとかの個人的な政治史での位置づけ。

2つ目は、中曽根内閣でどういう政策が取られたのか?

3つ目は、その政策がこれまでのあり方をどうのように変化させたのか?その中で、「戦後政治の総決算」の意味も明確になるか。

グローバリゼーション、その中で、大きな影響を与えていると考えられる金融資本主義というシステムについて、ちょっと勉強するためにジャン・ベイルルヴァッド『世界を壊す金融資本主』を読みました。

うぅーって感じで、難しいと思いました。きっと、グローバリゼーションを学ぶには、金融をきちんと学ばなければいけないでしょう。経済の原動力を金融と考えると、もしかしたら、グローバリゼーションを大きく動かしているのは、金融なのではないかと考えさせられます。

僕たちは、グローバリゼーションという巨大で不明な存在の前に絶望するのではなくて、それを理解するという努力を諦めずに努力する必要がある。そして、それをするためには、金融と格闘することが絶対に必要なのは明白である。

そこで考えなければいけないのは、その金融の力を止めるという風に考えることになるのだろうか。僕個人としては、規制とかは嫌いで、そこにいるアクター間での自主的な規制によって、社会が円滑に動くことを好ましいと考えている。それは、やはり、情報という観点からしても、そこにいる人たちが最も多くの情報を持っていると考えられるので、その人たちが自分たちで考えたことの方が効率的だと思うからである。

まぁ、夏休みくらいから、本格的に金融について勉強しようと思う。どちらかというと、金融の理論というよりは、その金融制度だったり、金融史とかを勉強することになるだろう。それは、金融の理論とかなら、学校で勉強できるからです。


●今日の読書

今日は、一身上の都合(他の本を借りる必要があったので、他の本を返す必要が生まれたから)により、明日または明後日に読む本を読みました。

加藤陽子「総力戦下の政-軍関係」『アジア・太平洋戦争2 戦争の政治学』
戦中の日本の政または軍の行動を、政-軍関係などの中から、きちんと説明を与えるという作業を行っているのではないかと、この研究の目的を考えた。

今度、加藤陽子『満州事変から日中戦争』を読むので、それを受けて、この著者の論文を読んでみた。同じ分野の吉田裕先生の授業を聞いていたので、内容自体は、取り組みやすいが、どうして、この分野を研究する必要があるのかについて、著者の回答を中心に見て生きたい。

僕なんかは、どっちかというと、社会の視点を入れた議論の方が、親しみを持ってしまう。どうしてかというと、この政―軍関係の研究の意義が良くわかんないからだろう。もう資料とかも出尽くしているのではないか。と、思ってしまうのである。

さてさて、2本目は、纐纈厚「戦時官僚論」『アジア・太平洋戦争2』を読んだ。

卒論で通産省について勉強するので、特に、通産省を戦時の統制官僚の系譜を強く引きついていると考えたので、読んでみた。

p.45「近代日本国家の生成発展過程において、資本家。政党、官僚、軍部などの諸権力集団が形成され、相互に対立と妥協を繰り返しながら、客観的には相互依存、さらには相互癒着という関係を構築していったことは多くの先行研究によって明らかにされてきた。本稿の目的は、国内外の政治・経済・軍事の各領域における環境の変容の中で、改編を迫られていった近代日本官僚制の位置を指摘することにある。すなわち、日本の官僚が『戦時』や『総力戦』という国内外の政治経済変動への対応過程で、その役割期待をどのように変化させ、内在化させていったのかを論じることにある。日本の官僚たちが、植民地支配や総力戦対応など対外的軍事的政策のなかで、軍部や資本家と連携しながら、どのような役割を担ったのか。併せて、日本の官僚が危機対応型の政策立案を恒常的に担った実態について総力戦論などの問題と絡めて論じる。要するに、植民地統治や総力戦を担った官僚たちの思想と行動を可能な限り迫り、その結果、戦後日本の権力構造にもシフトすることに成功し、戦後経済復興の立役者となっていく背景を探ろうとするものである。」

僕の問題関心について、的確な文章で記述されているので、引用してみた。

この文章を下に、僕の問題関心を書いてみると、国内外の政治・経済・社会の各領域における環境の変容の中で、日本は如何にして、国際社会に適応していったのか。その対応過程の中で、官僚、主に通産省は、その役割をどのようにしていこうとしたのだろうか。そして、それは他のアクターとどのような対立・妥協・合意を得ることになっていったのか。国内との摩擦だけでなく、国外との摩擦はどうであったのか。特に、アメリカの対日通商政策はどうであったのか。

要するに、国内外の環境の変容の中で、どのようにして、日本は高度経済成長を続けるようなことができたのか。とかとか・・・

途中で読まなければいけない本を発見:
小林英夫『帝国日本と総力戦体制』
雨宮『戦時戦後体制論』
山之内『総力戦と近代化』

3本目の論文は、加瀬和俊『戦時経済と労働者・農民』『アジア・太平洋戦争2』である。

この著者については、前から、『集団就職の時代』(経済研究所の図書館にある)とかを読みたいと考えていた。また、吉田裕先生がこの著者の、この論文のことを、スゴク褒めていたのが印象的だったので、この論文を読んでみることにした。

p.121「総力戦は利用可能な資材・資金・労働を最も効率的に活用することを要求し、それらの計画的配分=配当と、その利用の仕方の合理化を至上命令とする。その結果、生産・流通・消費のあり方は大幅に変更され、国民経済の構造も自営業・企業の経営方式も大きく改変される。とはいえそのことは、結果として社会・経済・労働力の効率的な利用が実現したことも意味しているものではない。総力戦の要請とその現実とは両者の実態にそくして実証的に比較されなければならない」

この文章が何かしら、実証主義を重んずる学者の、本音が出ているような感じがして面白いと感じた。

森先生は上の論文で述べているし、吉田先生は授業で述べていたが、最近の新しい歴史の潮流に対して、何か違和感を感じているそうだ。

僕なんかは、その違和感を感じることはできないのだが、若いので、どちらの方法論も吸収してから、考えていこうと思う。若者は、これまでの蓄積をぶっ壊して、その残骸の上に、新しいものを作るのが、年寄りに対する礼儀だよね。

ただ、歴史の方法論については、考えていかなければいけない。そこで最近、考えるのは、社会科学としての歴史学は、どのようにして科学であることが可能であるのかということである。

科学であることに対してこだわる必要があるのかどうかについても含めて、その方法論については、考えていかなければいけない。

もちろん、明らかに歴史学の場合は、立場が最も最初に問われるので、主観が入ってしまうのだが、それを踏まえた上で、如何にして科学であることができるのか。紙媒体を中心とした実証主義しかないのであろうか。

うぅー、悩ましい。

4本目の論文は、アンドルー・ゴードン「消費、生活、娯楽の『貫戦史』」『アジア・太平洋戦争6』です。

読んでて思ったのは、貫戦史とは何かということについては、学ぶ必要がある。

また、戦前・戦中期にも、アメリカの文化に親しむ日本という描き方をしていて、その点がスゴク面白かった。僕なんかは、主観的に、戦前・戦中は暗いような感じがするが、決してそうだけではなくて、戦後の豊かさを謳歌する受け手の基盤のようなものは、戦前・戦中に、既にあったのだということです。だから、戦後あのような急速な社会的な欧米化を遂げることができたのかもしれない。




以上。
書きすぎた・・・。ヤバイ、明日の予習をしなくっちゃ。。。

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