1.前回までのまとめ
(1)問題関心
①「国家」に対する考え[1]
②高度経済成長に対する考え
→高度経済成長において、日本は経済的に発展した。同時に、日本社会の「近代化」や「現代 化」も進んだ時代だと見ることができる。この「大きな変化」のあった時代に対して、その歴史の「連続」及び「断絶」に注意しながら見ていきたい。
(2)1950年代から60年代の日本の概観
①日本経済の規模
→人口一人当たりのGDPを確認
②産業の高度化
(3)1950年代の経済政策
→様々な経済政策がなされたということを確認した。高度成長の時代は、経済政策があらゆる分野で全面的に展開し、これを梃子として資本蓄積[2]が強力に進められた時期であった。
①外為法
②租税特別措置
③財政投融資
④個別産業育成政策
⑤行政指導
⑥金融政策
⑦構造政策
⑧経済計画
(4)貿易の自由化
①貿易為替自由化の背景
→「国外」からの圧力と、「国内」からの動きがあった
②貿易為替自由化への官僚の反応
→貿易自由化に対して、当時通産省で消極的な立場と積極的な立場の代表的な地位にいた人の考えを検討した。消極的な立場が、日本の現状に立脚して判断している一方で、積極派は相当に楽観的に対応していることが鮮明に分かった。
③「貿易・為替自由化計画大綱」
④自由化の推移
2.課題の再掲
・戦後日本の高度経済成長が日本社会を大きく変化させた[3]
→いかに日本社会を変化させたか?
・ここでは、高度経済成長期の「国際化」に焦点を当てながら、その適応過程が、いかに日本社会を変化させていったのかについて見る。
・先行研究、特に、経済史分野では、政府と民間がいかにして高度経済成長を達成したのかについて検証しているものが多い。このような研究の場合、経済成長に焦点が当てられていて、その時代に生きた人々への言及が不十分となっている。政府と民間の経済成長への動きによって、その時代に生きた人々は大きな影響を受けている。もちろん、影響を与えることもあったであろう。この卒論では、政府と民間そして社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていく。
・また、社会史においては、具体的な経済成長に関する言及が少なく、当時、政府や民間などの行動によって、社会が大きく既定されていたことを考えると、同様に、政府と民間、社会の3つの連関の中で、高度経済成長を見ていくことが必要である。
・以上、この卒論では、「国際化」の過程を、日本の政府・民間と社会、そして外国が、どのようにして適応していったのかについて見ていく。
・注意したいこととして、外資を敵視するのではなくて、外資の導入によって、いかに日本の「近代化」や「現代化」が進んだのかという視点を入れていきたい[4]。
3.貿易自由化の結果
自由化率の推移と、自由化の影響について簡単化して見ていこう[5]。1960年4月において、
40%であった自由化率は、62年4月には73%、63年4月には89%、64年4月には、92.3%
となった。62年4月までの自由化は、原材料を中心に行われたそうで、工業製品について
は、比較的競争力の強いものからなされていった。そのために、食料財、消費財などでは
自由化の直接的影響がかなり見られたものの、その他においては、自由化自体の輸入増に
与えた影響は、それほど大きくはなかった。
以下において、貿易自由化が農産物、そして農村に与えた結果について見ていこう[6]。農
産物については、輸入制限品目は62年4月の103から64年の72に急減し、自由化率は59年の43パーセントから63年の92.1%に急増した。コメ、ムギなど国家貿易品目や、牛・豚肉、乳製品、柑橘類といった基幹的・選択的拡大対象農産物を除き、その周辺の農産物とその加工品について大幅な自由化が行われていったようだ[7]。
その背景には、53年を転機[8]に、ムギ類や飼料用穀物、大豆などは、アメリカを中心に過
剰化と輸出余力の形成が進み、その国際価格が日本の国内価格を下回るに至ったというこ
とがあった。また、アメリカの食料戦略や学校給食の普及、高度成長にともなう所得水準
の上昇のもとで、若い世代から、パン食や、畜産物、洋風野菜[9]の消費が増え、食生活
の「洋風化、先進国化」が進み始めたという。
こういう背景の下で自由化が進められていったのだが、割安な農産物の輸入の増加は、
それらの国内生産の縮小につながった。食管制度化に貿易が政府の一元化にあったムギ類
の輸入がコムギを中心にこの期に急増し、国内生産が圧迫し、切り捨てられていき、自給
率の低下が始まったようだ。コムギの自給率は、55年は41%、60年には39%、そして、
65年には28%となっていった。
飼料用トウモロコシは、自由化が本格化する以前に輸入がいち早く自由化され、さらに
64年にコウリャンも自由化され、この期に飼料用の穀物の輸入が急増することになる。こ
のようにして、日本の家畜業は飼料用作物の経営地での「土地利用型」ではなくて、その
全面的輸入依存による工業的な「加工型」畜産として本格的に展開することに至る。
大豆も、ムギと同様に、自由化のために、その自給率は1ケタ台へと急落していくこと
になる。大豆は、油脂やみそ・しょうゆ・とうふなどの原料であり、その油粕が飼料原料
にもなり、製油・食品・飼料資本にとって重要な作物である。61年に自由化され、その後、
輸入急増、国内生産の急減となることになる。
このようにして、ムギ類、飼料用穀物、大豆の輸入増大に強く影響されて、この期の農
産物輸入は60年の8.7億ドルから65年の18.9億ドルへと6年間に2.2倍に急増し、逆に
農産物自給率は穀物重量、熱量ベースともにこの期から急減しはじめた。
ただ、60年代は一連の農産物の国内生産の減少と農産物自給率の低下が進んだが、まだ、
その程度は緩く・部分的であり、農業総生産額は金額でも物価指数でも増大することにな
ったそうだ。日本人の主食であり、60年当時ほぼ全農家の90%が作付けし、全農業生産額
の半分を占める農業の大黒柱=コメは、旺盛な需要と高米価のもとで農民は増産を競い、
ひきつづき高位生産を継続することになった。また、農業総生産額のほぼ30%を占め、国民
の需要がますます増える傾向にあり、選択的拡大の対象とされた畜産物、果実、野菜生
産を拡大[10]していった[11]。
以上、貿易自由化と、それに付随する要因による農産物生産の変化を確認してきた。ま
た、他にも、農業生産の増大のための、各種設備の導入や、高度経済成長期における就業
構造の変化によって、農村は、大きく変化していくのであった。
貿易自由化の結果として、農産物及び農村以外にも
・地域開発計画
・エネルギー生産
・中小企業
・国民意識・・・
など多くの領域に、様々な影響を与えていったことが予想される。その中で、「近代化」
及び「現代化」がどのように進んでいったのかまで、見ていきたい。
4.資本自由化への過程
(1)資本の自由化とは?
資本自由化とは、1967年から1976年にかけて段階的に実施された、対内直接投資および技術導入の自由化のことである。
(2)資本自由化前史
①資本自由化措置が実施されるまで外資導入は、「外資に関する法律」(=外資法)および「外国為替および外国貿易管理法」(=外為法)の下で管理されていた。
②そのため、外資導入に当たっては、政府の個別認可を必要とした。特に、1950年代末に国際収支が好転し、外貨準備が急増する以前は、配当・利子・特許料の支払いが、国際収支を圧迫することが懸念されたために、外資導入に当たっては、国際収支の改善に寄与するものが優先的に認められていった。
③外資導入申請の審査は、関係各省の事務次官等からなる外資審議会(大蔵大臣の諮問機関)が、外資法の基準に照らして行われた。
④外資法による外資導入は、
・直接投資(株式取得による日本企業への経営参加、合弁企業の設立、子会社の設立などの外資系企業の進出)
・間接投資(社債、貸付金、資産運用目的の株式取得など)
・技術導入
の3つの形態に大別することができる[12]。
⑤自由化以前の外資導入を3つの形態別に概観する。
・直接投資
直接投資が少なかった理由は、
日本政府の審査が厳格であったこと
外国企業の側に日本へ進出しようとする意欲が乏しかったこと[13]
・間接投資
企業(とくに電力や重工業)の外債発行や外国銀行企業からの借り入れの意欲
は盛んであった。しかし、実際には1950年代[14]には日本の企業は独力で外国
の資本市場や、民間銀行から資金調達を行いうるだけの国際的信用を持って
いなかった。1960年代に入ってから、ようやく民間企業は海外から自力で資
金を調達することができるようになったとある[15]。
・技術導入
→高度経済成長期の日本の産業に導入された主要技術の大半が輸入技術であったこと[16]が示すように、企業は技術導入にきわめて意欲的であった。
→しかし、外貨準備の制約があったために、政府は、輸出産業育成に役立つ技術輸入を優先させた[17]。
→また、外資審議会は、日本企業が競争して外国企業の先進技術を導入しようとする際において、契約条件が日本企業に不利になることを防ぐ役割を果たした。そして、不利な場合は、技術契約の申請案件について、修正を命じることもあった。技術導入許可を与えるメーカーを限定することによって、「過当競争」を防ぐ手段でもあった。
(3)資本自由化への契機
①1964年4月のOECD加盟[18]
→「資本移動の自由化に関する規約」「経常的貿易外取引の自由化に関する規約」の
2つの自由化規約を承認
→資本移動と経常的貿易外取引の自由化の義務を負うことに
②アメリカ企業の日本への進出意欲の高まり、そして、アメリカ政府からの自由化の圧力。
アメリカ政府は、1965年7月の第4回日米貿易経済合同委員会そして、1966年7月の第5回合同委員会において日本政府に対して外資規制の緩和を強く求めた[19]。
↓
1966年7月、三木通産大臣は、1年以内に資本自由化の方針を示すことを約束。
↓
1967年2月水田蔵相は外資審議会に対内直接投資の自由化方針について諮問
→6月に外資審議会からの答申を受けて
→7月、政府は第1次資本自由化措置「体内直接投資の自由化について」を実施
③日本企業の立場
日本企業の側には、外国企業の進出を求める積極的な理由はなかった。
→日本企業の海外進出は進んでいなかったこともあり、相互主義の見地からの資本自由化への必然性も弱かった。
④経団連の立場
資本移動の自由を認めることが長期的に有利であると判断
→1966年5月、資本自由化決議
→経団連は通産省の原局から意見徴収を行い、自由化業種の検討
66年9月、業種別懇談会による自由化業種の選定
↓
67年以前において、第1次資本自由化への作業は経団連では、既に進んでいた
⑤資本自由化への政治構造
・積極的に資本自由化を進めようとする経団連(石坂泰三会長)
→大蔵省の支持
・個別産業の利害と立場を代弁しなければいけない通産省、そして日本商工会議所
⇒経団連が「総論賛成」を、通産省が「各論反対」を唱えるという構図が出来上がった。
(4)資本自由化の結果
①「安定株主」の確保のための「系列化」[20]
6.課題と反省
・「国際化」の過程を見るからと、貿易為替の自由から資本の自由化まで全てをみることは不可能である
→時期を区切って見ていくことが必要
・基礎知識の欠如などのために、書かれていることを鵜呑みにしてしまっている
→実証して、確かめる必要がある
(三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年は、「なぜ」を問うことの必要性を、具体的に日本研究の事例を扱う中で、言っていた。実証的な検証に耐えることができないような概念を使わないように注意していきたい。)
7.参考文献
・社団法人経済団体連合会編『経済団体連合会50年史』経済団体連合会、1991年。
・通商産業省、通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』通商産業調査会1989年-1994年。
・エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言』毎日新聞社、1977年。
・エコノミスト編集部『高度成長期への証言』日本経済評論社、1999年。
・経済同友会『経済同友会50年のあゆみ』経済同友会、1997年。
・山澤逸平他著『貿易と国際収支』東洋経済新報社、1979年。
・毎日新聞社編『一億人の昭和史 高度成長の軌跡』毎日新聞社、1976年。
・毎日新聞社『高度成長』毎日新聞社、1984年。
・朝日新聞社編『朝日新聞に見る日本の歩み 高度成長への信仰』朝日新聞社、1977年。
・大蔵省財政史室編『昭和財政史―昭和27―48年度』全20巻、東洋経済新報社、1990-2000年。
・経済企画庁編『戦後日本経済の軌跡 経済企画庁50年史』大蔵省印刷局、1997年。
・同編『経済白書 昭和39年度版』大蔵省印刷局、1964年。
・マンガス・マディソン著、政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820年~1992年』東洋経済新報社、2000年。
・『毎日新聞』
・通商産業省『通商白書 総論1964年』通商産業調査会、1964年。
・通商産業省『通商白書 総論1960年』通商産業調査会、1960年。
・土門拳『ドキュメント日本 1935年―1967』小学館、1995年。
・通商産業省編『商工政策史 10巻』商工政策史刊行会、1961年-85年。
・太平洋戦争研究会『GHQの見たニッポン』株式会社世界文化社、2007年。
・日本放送協会放送世論調査所『図説戦後世論史 第2版』日本放送出版会、1982年。
・三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年。
・東京都写真美術館編『昭和の風景』新潮社、2007年。
・赤瀬川原平『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』岩波書店、2007年。
・内田公三『経団連と日本経済の50年』日本経済新聞社、1996年。
・マーク・フューステル編『日本の「自画像」』岩波書店、2004年。
辞書・辞典:
舘龍一郎編集代表『金融辞典』東洋経済新報社、1994年。
本・論文[21]:
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□同『比較制度分析に向けて』NTT出版、2003年。
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■同「昇りつめた高度成長」歴史学研究会編『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
○浅井良夫『戦後改革と民主主義』吉川弘文館、2001年。
■同「資本自由化と国際化への対応」中村政則編『日本の近代と資本主義』東京大学出版会、2002年。
□雨宮昭一『戦時戦後体制論』岩波書店、1997年。
■同「1950年代の社会」歴史学研究会編『日本 同時代史3』青木書店、1990年。
□荒川章二「日本型大衆社会の成立と文化の変容」『日本 同時代史4 高度成長の時代』青木書店、1990年。
■アンドルー・ゴードン著、森谷文昭訳『日本の200年上・下』みすず書房、2006年。
□同編『歴史としての戦後日本上・下』みすず書房、2001年。
■五百旗頭真編『戦後日本外外交史』有斐閣、2006年。
■伊藤正直「高度成長の構造」渡辺治他編『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、2004年。□伊藤元重『産業政策の経済分析』東京大学出版会、1988年。□猪木武徳『経済思想』岩波書店、1987年。○猪木武徳・安場保吉編『日本経済史8 高度成長』岩波書店、1989年。
□色川大吉『昭和史世相篇』小学館、1990年。
□大門正克他著『戦後経験を生きる』吉川弘文館、2003年。
□大瀧雅之『景気循環の読み方』筑摩書房、2001年。□大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年。□同『高度成長期の政治学』東京大学出版会、1999年。□岡崎哲二、奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年。
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□小浜祐久『戦後日本の産業発展』日本評論社、2001年。□小宮隆太郎他編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年。
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□菅孝行『高度成長の社会史』農村漁村文化協会、1987年。
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○鈴木良隆『ビジネスの歴史』有斐閣、2004年。
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□チャーマーズ・ジョンソン著、矢野俊比古監訳『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニ カ、1982年。
□鶴田俊正『戦後日本の産業政策』日本経済新聞社、1982年。□寺西重朗『日本の経済システム』2003年、岩波書店。
□同『日本の経済発展と金融』岩波書店、1982年。
○暉峻衆三『日本の農業150年』有斐閣、2003年。
○中岡哲郎『日本近代技術の形成』朝日出版社、2006年。
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■豊下樽彦『集団的自衛権とは何か』岩波書店、2007年。
□中村章『工場に生きる人々』学陽書房、1982年。■中村政則『戦後史』岩波書店、2005年。
■同「1950年-1960年代の日本」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。■中村隆英・宮崎正康「1950年代の産業政策」中村・宮崎編『岸信介政権と高度成長』2003 年、東洋経済新報社。
■中村隆英「日本における産業政策の特色と評価」『週刊東洋経済』1974年6月18日臨時 増刊。
□同『日本経済』東京大学出版会、1978年。
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■日高六郎編『戦後日本を考える』筑摩書房、1986年。
■日高六郎『戦後思想を考える』岩波書店、1980年。
□平井陽一『三池争議』ミネルヴァ書房、2000年。□福川伸次『活力ある産業モデルへの挑戦』日経BP出版センター、2004年。
□講座現代資本主義国家編集委員会編『講座現代資本主義国家 現代資本主義の政治と国家』大月書店、1980年。
□堀内圭子『〈快楽消費〉する社会』中央公論新社、2004年。
□松田廷一『高度成長下の国民生活』中部日本教育文化会、1985年。
□南亮進『日本の経済発展 第3版』東洋経済新報社、2002年。■宮崎勇『証言戦後日本経済』岩波書店、2005年。
□宮崎義一『国民経済の黄昏』朝日新聞社、1995年。
□同『戦後日本の企業集団』日本経済新聞社、1976年。
□宮島英昭『産業政策と企業統治の経済史』有斐閣、2004年。
□三輪芳朗『政府の能力』有斐閣、1998年。
■三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年。
□同『産業政策論の誤解』東洋経済新報社、2002年。
□同『日本経済論の誤解』東洋経済新報社、2001年。
□柳川隆、川濱昇編『競争の戦略と政策』有斐閣、2006年。
□村上泰亮『新中間大衆の時代』中央公論社、1984年。■森武麿他著『現代日本経済史』有斐閣、1994年。
■同「総力戦・ファシズム・戦後改革」吉田裕他編『アジア・太平洋戦争第1巻』岩波書店、2005年。
□渡辺治編『高度成長と企業社会』吉川弘文館、2004年。
■同「戦後保守支配の構造」安丸他編『岩波講座 日本通史』岩波書店、1995年。
□山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年。
○山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一『総力戦と現代化』柏書房、1995年。
■吉川洋『高度成長』読売新聞社、1997年。
□同『日本経済とマクロ経済学』東洋経済新報社、1992年。
□同『転換期の日本経済』岩波書店、1999年。
■吉見俊哉『親米と反米』岩波書店、2007年。
■米倉誠一郎『経営革命の構造』岩波書店、1999年。
[1] これまでの報告では、過度に、「国家」の役割を強調するものであった。これは、様々な「変化」に対する、「国家」の対策を重視しているためである。
[2] 実証的に分析する必要性を感じた(三輪芳朗他『経済学の使い方』日本評論社、2007年)。
[3]原朗は「農地改革を経て、高度成長による工業部門の急拡大の結果、明治以降もゆるやかに進行しなかった農業人口の分解が一挙に展開することになったのである。さらに長期的な観点からみれば、弥生時代に形成されてから連綿として続き、農地改革によってもなお解体されなかった農業共同体が、高度成長期の間に大きく崩れ始め、解体への道をたどることになったのである。その意味では、高度成長期における経済構造の変化は、農地改革・地租改革・太閤検地などを飛び越えて、はるか2千年前の弥生時代における変化に匹敵するといってもよいと思われる」と述べている(原朗「戦後50年と日本経済」)。
[4] 具体的には、マクドナルドやコカコーラとかを見ることになるのだろうか?
[5] 『通商白書 昭和39年総論』p.107-115を参照。
[6] 暉峻衆三『日本の農業150年』第6章を参考に以下記述する。
[7] 暉峻衆三『日本の農業150年』p.183-184。
[8] 1953年、アメリカでコムギや、トウモロコシなど穀物類の滞貨
→輸入価格が国内価格を下回ることに
↓
アメリカは過剰農産物を処理するために、対外食糧援助
→53年、相互防衛援助法の改正法
54年、「公法480号」
→過剰農産物処理をいっそう促進するための法律
→ドルをもたない国でもアメリカの過剰農産物を受けいれて、それを自国通貨で販売し、その代金の一部はアメリカが現地での調達にあてるが、それ以外は、受入国が自国の経済力強化のための借款として使うことができた。また、受入国農産物の一部は、学校給食のために贈与されるとされた。
54年から56年に、日本はこの援助によって、80万トンもの過剰農産物の受け入れ
→その売り上げ代金の多くを電源開発や、愛知用水などの農業開発
→または、日本での軍事目的やアメリカ農産物の市場開拓のために使用
54年、「学校給食法」
→パンと脱脂粉乳による学校給食を実施することが記載された
+56-61年、アメリカ政府の援助資金による「キッチン・カー」の全国巡回
⇒日本人の食生活にパン食を中心とした洋風食を導入することに
⇒日本人の胃袋がアメリカの農業と政策に依存し、満たされるようになる起点となった(暉峻衆三『日本の農業150年』p.158-159)。
[9] 洋風野菜が増えたということは、この本の記述からは支持されない。
[10]赤澤史朗「所得倍増計画と高度経済成長」によれば、農業生産指数(1960年を100)とする時に、1965年では野菜116、果実123および乳牛142、豚232、鶏279、鶏卵196であった。
[11]暉峻衆三『日本の農業150年』p.185。
[12] 浅井「資本自由化と国際化への対応」p.268。
[13] 1960年頃からアメリカの多国籍企業の先進国への進出が活発になってくるが、主たる進出先は西ヨーロッパであり、1960年代前半にはまだ日本への関心は低かったとしている(浅井「資本自由化と国際化への対応」p.269)。
[14] 1950年代の間接投資は、世界銀行やワシントン輸出入銀行からの経済援助的性格を帯びた借款があった。
[15]浅井「資本自由化と国際化への対応」p.269。
[16]浅井「資本自由化と国際化への対応」p.270。
[17]限られた外貨を有効に活用して国民経済の健全な発展を図ることが当面の課題となった(『通商産業政策史 6』p.77)。
[18] 日本政府がOECD加盟にきわめて積極的であったのは、アメリカと西欧の経済関係が緊密化するなかで、日本が「先進国グループ」から取り残されることに対して危機感を抱いていたためとしている(浅井「資本自由化と国際化への対応」p.271)。
[19] 外資規制の緩和が強く求められたのは、外資比率50%以上の合弁企業の設立や、外資100%の子会社設立であった。
[20]浅井「資本自由化と国際化への対応」
[21] ■:読んだ。 □:読んでいない。 ○:参考にした。

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