2008/01/21

今日この頃

ただ今、テスト勉強で、忙しいです。ラスト2週間です。気合です。「のだめ」モードです。

でも、勉強している時に、思考がストップしてしまうことが多々あり、ストレスです。そんな時は、自分の精神の弱さを感じます。のだめの「千秋」と同じだと思うときです。よく、のだめの千秋みたいだ、と言われます。

今日は、関先生の授業が最後でした。相変わらず、面白い授業でした。今日のポイントは、日中の架け橋となる人材は、存在するということです。

2つほど、中国から大量の若者が日本に来る契機がありました。

80年代初頭に、5年間ほど、毎年、日本・フランス・ドイツに各100人を送り出すプロジェクトを鄧小平の肝いりで行っていたそうです。その日本における、出世頭はEPSという医療関係の会社の社長さんだそうです。(東大の医学部の大学院に所属時に、指導教官から、教官は会社を起こせないので、代わりにやれと言われたそうです。)

中国では、外国に行くと、戻ってこない可能性があったそうですが、おおよそ、4割は戻っているということでした。

この世代は、40代後半から、50代前半で、社会の中枢に、知日の人たちがいるということでした。

2つ目は、天安門事変が起きてから、90年から93年ぐらいまで、中国の大学を卒業すると、5年間は、海外に行くことができないという「噂」のため、大量の大学生が大学を辞めて、日本に来たそうです。

当時、日本ではSE不足。ちょうど、供給と、需要がマッチしました。

それから、10年。彼らも結婚し、子供も、小学校3年生くらいになります。

話によると、小学校3年が一つの転機だそうです。というのは、それ以上、日本にいると、その子供は、日本人というアイデンティティを持つようになるということでした。

その結果、多くの中国人が帰りました。2000年から2003年くらいの話です。そして、仕事の多そうな、北京に大勢が行きました。

彼らには日本でのSEとしての経験がありました。ちょうど、2002年ごろ、中国の指導者は、インドのバンガローの様子を見て、中国も、ソフトのアウトソーシングを戦略を進めようとしていました。

そして、世界を見たときに、アメリカではインドやアイルランドなど世界的な競争があったのですが、日本は漢字の壁のため、中国が大きなシャアを占めることに成功することになりました。実際、中国の64%は、対日です。

その大きな流れに乗ったのが、かつて日本でSEの経験があった人たちで、彼らは、それで起業し、成功を収めるようになりました。今では、日本に支社まで出し、仕事をしているという話でした。

以上のように、政治的な何かしらの状況変化が、人々の移動を起こし、結果、予測困難な側面であるが、相互依存が確実に進化していることが分かる。

(一橋の王雲海先生も、もしかしたら、前者の例なのかもしれない。)

そんな話でした。

以上

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